味のする感情

数日ぶりに外に出た。といっても症状がある以上出歩くわけにもいかないので、ベランダである。俺たちの天下に文句はあるか?と言わんばかりに鋭い冬の空気が首元を取り囲んできた。数日前に布団を出し、昨日は冬用のインナーと裏起毛のスウェットを解禁し、今日は厚手の毛布とブランケットが一軍入り。それから湯船に浸かるのも。加速度をつけて冬が牙を剥いている。四季の国(というのは何も日本だけの専売特許ではないが)とはすでに過去の誉れなのかもしれない。それでも金木犀が香るかぎり、秋と呼ばれる端境の季節は言葉のうえではなくならないのだろうが。あるいはそのうち金木犀は冬の訪れの花になるのだろうか。

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都の無料抗原検査キットが届いていたので、さっそく実施してみると、おもしろいほどにくっきりと陽性の線が浮かび上がってきた。過去に二回試していて、いずれも陰性だったのでどれほどのものだろうと思っていたのだが、こうもまざまざと目にすると感慨深さすらある。とはいえ体調はするすると回復の一途をたどっていて、昨日あれほどさいなまれた喉の痛みも、今はさほど気にならない。持ち主のたましいはそうでもなかったわりに、器のほうはずいぶんと頑健にできているらしい。病院に行くのが気が引けるくらいにはぴんぴんしているので、このまま自宅療養者として、感染者の数には含まれないまま日常に戻ることになる。

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朝、ツイッターにすこしログインしてみたが、すっかり辟易してすぐにやめてしまった。ここはうるさすぎる。そう思ってから気が付いた。ツイッターから離れたことだけで何かが大きく変わったわけではないと思ったけれど、「私が」何を思うかに向き合うのがずいぶん容易になったというだけでも、それなりに変化とよべるのではないか。何かを感じることあるいは感じないことに罪悪感をおぼえなくてよい。誰かの言葉を基準に、自分の感覚や感情を疑ったり、正誤を判断したりしなくてよい。ここには私しかいないから、他者の言葉に責任を転嫁することも、何かを肩代わりしてもらうこともできない。

感情や思考が自分を内側で圧迫するまえに、ツイッターで小出しに流してきた。案外それらには、もっと噛み砕いて、もっと味わい尽くす余地があったのかもしれないと思いはじめている。あの世界の時間の流れは早い。ゆっくり咀嚼している余裕もなく次が口に押し込まれる。それについていかなくてはならないと、いつの間にか思い込まされていた。自分の感情は、けっこう味がする。

きっぱり辞めるつもりはない。いずれ戻るだろうと思っている。否、戻りたいと思っている。私がツイッターを好きなのは、すくなくとも私にとってそれが誰かと向き合うためのツールというよりも、誰かと一緒に生きるためのツールの意味合いが強いからだ。直接交わした言葉の何十倍、何百倍もの存在の欠片をたがいに目撃しあいながら、数年近くゆるやかな関係をたもつ相手がいる。そういう人を失いたくないし、一緒に生きていると思っていたいから、そのうち戻る。

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「ここはうるさすぎる」という一文を書いた瞬間、子どものころに読んだ絵本にそういうフレーズがあったという記憶がふっとよみがえってきた。おぼろげな記憶を頼りに調べたらすぐに見つかった。ヘレン・ピアスの『ねずみのいえさがし』という写真絵本である。二十年近く読んでいないはずだが、こうして突然思い出すこともあるのだからおもしろいものだ。

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教科書やテキストに書き込むことが極端に苦手な子どもだった。それらはきれいにとっておかなくてはならないものだと思っていて、自分の書き込みで台無しになりそうで怖かった。このところ本を読むことが増えて、そうも言っていられないと思いはじめた。読み返したときに何も思い出せないのが関の山だからだ。これでは何のために読んでいるのかわからないので、使っていなかった蛍光ペンを机から探し出した。それでも残る厄介な几帳面さが均一な太さで線を引きたがっていたが、最初の一行目でみごとに失敗したのでもう怖いものはない。自分で所有している本は、もっと思い切って汚していく。