冷凍二十一歳

長く降り続いた雨はようやく止んで、ひさしぶりに雲の切れ間を見た。このところ世界がやけに静かに感じるのはツイッターから離れているせいだと思っていたが、雨と寒さで街に人がいなかったからというのもあるのかもしれない。掃除のために窓を開けたら、冷たい風とともに家の下の道路を走る子どもの声が入ってきて、他者の存在が新鮮に感じた。

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楽しみにしていたミュージカルのチケット発売日であることを、前日の夜、布団に入ってから思い出して目覚ましをかけておいたにもかかわらず、寝坊して出遅れた。感染症の影響で中止になった公演と同じくらいの席をおさえるという意気込みはあえなく散った。それでも、一年の締めくくりに観るのがこの作品であることも、それを連れと観られることも嬉しい。

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昨夜作ったじゃこと葱のペペロンチーノのじゃこが余っていたので、レトルトの粥に入れた。にんにくと炒めたじゃこはそのままだと白粥に合わない気がしたので、ナンプラーとごま油を数滴ずつ垂らしてタイ風粥にした。パクチーがあればもっとそれらしくなったろうが、あいにくそんな贅沢の言える状況ではない。何にしてもこれが功を奏して、とてもおいしかった。

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何を思ったのか、数日前にツイッターのデータアーカイブを取得していたのだが、ようやくデータ生成が完了したという通知が来たのでしばらく覗いていた。今使っているアカウントの中ではもっとも歴史の長い、高校や大学の知人たちとつながっているものだ。アカウントを作ったのは七年前だから、初期のつぶやきには大学四年、二十一歳当時の自分が瞬間冷凍されているわけである。とりたててその頃から自分が大きく変化したつもりではいなかったのだが、知らない人のつぶやきかと思うくらい、そこに残っていた感情や出来事にはおぼえがなかった。むろん、教育実習や国会前のデモへの参加や院試や卒論執筆や演劇参加、そういう大きなイベントの記憶はある。でも、精神的にかなり不調な時期だったことを差し引いても、当時たしかに自分が生きていたはずの日常がまったく現実の質感をともなって再現できないのは奇妙な感じだ。いちばん驚いたのは「基本一人の時間なんていらないし、友人とわいわいしてたい」というつぶやきを見つけたときで、かなり目を疑ってしまった。おまえ誰だよ。自分を自分たらしめる一貫性はどこかにあるのだろうか。

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寄付先からの会報や卒業大学の学報を読んでいるうちに、自分はいったいこんなところで何をしているのだろうと情けなくなってしまって泣けてしまった。