靴を見上げる

高校のころの部活の先輩がやっているバンドが新曲を出したとインスタグラムで告知していて、何の気なしに聴いてみたらこれがすごくよくて、思わずメッセージを送った。明るいシューゲイザー。明るいシューゲイザーってなんかちょっとこう、「陽気な陰鬱」みたいな矛盾を感じるけど、宮沢賢治の『やまなし』の光景が浮かぶような、水底からゆらゆらと青く透ける向こう側の太陽を眺めているような、そういうふつふつとしたまぶしさのある楽曲だった。

にわかにパッと明るくなり、日光の黄金は夢のように水の中に降って来ました。

宮沢賢治『やまなし』

高校の卒業以降ほとんど顔を合わせることもなかったから、およそ十年ぶりの会話である。他愛のないみじかい言葉をかわして会話はすぐに終わってしまったけれど、ライブがあったら行きたいと伝えたのは社交辞令ではない。

シューゲイザーという音楽のスタイルに自分が惹かれる日が来ようとは思わなかった。轟音のなかに美しさがちらつくという意味では生まれてはじめて好きになったバンドの特徴でもあるので、考えてみれば自然のなりゆきなのかもしれないけれど、でもやっぱり不思議だなあと思う。シューゲイザーを好きな自分、というのがちょっと自分のなかの自分のイメージにそぐわない気がする。それもこれも斉藤壮馬さんの『埋み火』という音楽にぶち抜かれたからである。

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海外に出るということについて、一度その選択肢を直視してみたらほんとうにやってみたい気持ちが無視できなくなってきた。こうして考えてこなかった、見ないようにして諦めてきた選択肢に正面から向き合うだにひしひしと思い知るのは、とかくおのれの臆病さである。失敗の経験が極端にすくないとこう成り果てるのだ。ワーキングホリデーの制度をつかうならば、語学学校に通いながらバイトを見つける、というのが定番の過ごし方のようだが、親にその話をしたらおまえには語学学校はいらねえだろと一笑に付された。各種英語のスコアから考えるとそういう結論でも良いのかもしれないけど、でも私はまったく自分の英語に自信がなくて、だから自分を安心させるために必要なのではないかとも思う。何が正しいのかわからない。すぐにこうやって正誤の問題にするのが一番悪いところである。でも、しゃべるのがほんとうに怖いのだ。発音も良くて、読むのも聞くのもほとんど問題がない、それでいてしゃべりだけがだめというところに抱え込んだコンプレックスはほんとうにばかにならない。行ってみたらなんとかなると経験した人はだれでもいう。実際、ひとりぐらしだってそうだった。でも私は怖い。自分をどこまで信用してやればいいのかわからなくて怖い。ドラマを見ていたら、元恋人に連絡をとることをためらう主人公に対して、友人が "You'll never get ready whatever you do!" と一喝していて、自分に向けられた言葉かと思って苦笑いした。