不死への努力

ぜんぶどうでもいい、という無気力にあらがえなくなってからどれくらい経つのか、だんだんわからなくなりつつある。急な冷え込みにくわえて、曇天と雨天が続いているのもたぶんよくない。冬はほとんど毎年のように季節性の憂鬱に苦しめられるが、今年も例外ではないらしい。昨年はめずらしく調子が良い状態で冬を越せたので、もう振り切れたと思っていたのだが、そう簡単に逃がしてはくれないようだ。

生活がまわっていないわけではない。食事を作る気力がないのでろくなものは食べていないが、仕事は最低限やっているし、語学や資格の勉強は続けている。本も読める。問題は、そのどれもがおもしろくないことだ。ただ何かをやっていないと時間を持て余してしまうので、こなしているという感じである。おもしろくないと言い切るのはいささか強い表現だが、おもしろさや楽しさもふくめて、感情の振幅がかなり狭まっている。

時間は残酷で、あれだけ確実なものだと信じて疑わなかった感情たちは、今になってみれば色褪せて、ただの過去になりさがった。鮮やかに私の琴線を揺り動かしたものたちは、もはや私の中に何ものをも想起する力を持たなくなった。すべてが一過性で私の中に残らないとすれば、本を読んだところで、喜びをおぼえたところで、誰かを愛したところで、いったい何になるというのか。そういう無力感が日に日にふくらんでゆく。鈍麻した感情の中で、希死念慮の感覚だけが冷徹な鋭さをたもつ。

今なら読める気がすると思って、ハンナ・アーレント『人間の条件』を読みはじめた。まだ序盤も序盤だが、数十年前に書かれた内容がまったく色褪せておらず、今私が生きる社会を的確に言い当てていると思えることに、人間社会の進歩のなさを感じてうんざりする。これだけ技術が進歩したのに、と思うが、むしろしたからこそなのかもしれない。人間の理性の醸成は、技術の進化の速度に追いつけない。沖縄の座り込み抗議を揶揄した輩に代表されるような冷笑主義は、まさにアーレントのいう観照生活の優位をいまだに引きずり続けていることの証明だろう。

語彙はかなり難しく、理解は遅々として進まないが、ペンで書き込むようになってから、以前よりも良い本の読み方ができていると思うようになった。目が文章のうえを滑っていかなくなって、ひとつひとつの文の意味を噛み砕く癖がついた。これはおそらくツイッターを離れて得られた効果のひとつでもあって、たしかに存在した「本をたくさん読む人として見られたい」という承認欲求の呪縛からすこし自由になりつつあるのだろうと思う。私のために読むことができるようになった。

宇宙では万物が不死である。しかし、その中で人間だけが死すべきものであり、したがって、可死性が人間存在の印となった。(略)
 死すべきものの任務と潜在的な偉大さは、無限の中にあって住家に値する、そして少なくともある程度まで住家である物──仕事、偉業、言葉──を生み出す能力にある。(略)不死の偉業にたいする能力、不朽の痕跡を残しうる能力によって、人間はその個体の可死性にもかかわらず、自分たちの不死を獲得し、自分たち自身が「神」の性格をもつものであることを証明する。

ハンナ・アレント『人間の条件』清水速雄 訳

神の性格をもつことの証明には今のところ興味を惹かれないが、自分が可死性の生きものであるということはたしかに私の無力感の一端を担っているだろうと思うので、この先で展開されるはずの人間の諸条件についての考察が、私自身の不死への努力を取り戻せる一助になってくれればいいと思う。