出会うべき時

憂鬱は底を打ったらしく、この日はひさしぶりに早く起きた。仕事をはじめるまでに日曜にやり残した家事を片付けて、紅茶を淹れて本を読む余裕すらあった。昼には豆を挽いてコーヒーを淹れたし、気分の低迷と続く長雨のせいでろくにできていなかった買い出しもして、冷蔵庫がにぎやかしい。

去年のはじめに体調を崩して仕事の進め方を見直してからというもの、毎朝パソコンを開くと、まずその日の作業計画を立てる習慣がついた。ToDoリストに残っている作業と会議のスケジュールを照らし合わせながら、何時から何時までの間にどの作業をやるかを三十分単位であてはめていく。これをやるようになってから、忙しいときでも、何から手を付けていいかわからずにパニックになることがかなり少なくなった。焦りを感じることはあっても、とにかくいったん立ち止まって計画を立てるというところに戻ればちゃんと自分を安心させてやれる、という経験則を手にしたことで、その焦りや不安を飼いならす技術を身につけたのである。ところが、ここしばらくはそれがからきしで参っていた。計画を立てるのはすっかり習慣化しているのでやめずにいたものの、何ひとつそのとおりに進まない日が続いていたのだ。そうなるとどうせ何をしてもだめだという気持ちに拍車がかかって、ますます労働への意欲が削がれていくので閉口していた。この日はひさしぶりにその捨て鉢から脱することができた。生活が自分の支配下にあるという感覚をひさしく味わっていなかったので、すこしほっとしている。

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夜になって、釣りに行っていた連れが釣果を土産に遊びに来た。平宗田鰹と丸宗田鰹を捌いて、半分は刺し身にしてこの日のうちに食べた。残りは翌日焼くために醤油と酒とにんにくに漬け込む。魚と一緒に持ち込まれたもらいもののキムチツナの缶詰は胡瓜とごま油と和え、揚げ焼きにした茄子を南蛮漬けにしたものと蓮根のきんぴらも作って、満足感のある食卓になった。蓮根のきんぴらは、いつもの薄い輪切りではなく、縦に割ってみたのだが、このほうが歯ごたえがあって好みだった。粒胡椒を山ほどかけるのが美味しい。

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『チェンソーマン』と『水星の魔女』を観た。『チェンソーマン』は、原作を読んだときには、動かされるものがあったとは言いがたい作品だった。物語との出会いというのは有機的な反応だ。この物語と「出会うべき時」を私はすでに逃してしまったのか、それともこれから訪れるのかはわからない。永劫出会うべき時が来ないということだってありえる。何かに惹かれるのが理屈でないのと同じように、何かに惹かれないのもやはり理屈ではないから。ただ、周囲の興奮についていけなかったことで、どうしたって疎外感はおぼえたし、自分の感覚に対する不信が芽生えることにもなって、結果的に作品にたいしてうっすらした苦手意識を抱くまでになった。

インターネットに身を浸していると、あらゆる創作物が履修対象として推薦されるのを日々目にする。作品と出会う機会が増えるのは良いことでもあるけれど、やはりそうして出会うものの多くは、私にとって「今じゃない」ものなのだ。本来、私と作品の関係というのは、きわめて個人的で排他的なものだ。作品に対する他者の感想が簡単に目に入るという環境は、そういう関係を結ぶことを阻害し、物語に対する印象を画一的なものに押し留めるものでもあると思う。

アニメを観てみようと思ったのは、そういう他者の感想や感覚から距離をとっている今、自分がこの作品に対してどう感じるか、あらためて確かめてみたかったからだ。物語の展開としてはこれからだが、あまりの濃密な見ごたえに終始呼吸を持っていかれて、苦しいほどだった。気持ちに余裕があるときでないと観られないたぐいのものだが、目を離せなかったのも事実だ。放映が終わったときに自分がどう感じているにしろ、今はその帰結を楽しみにしている。楽しみにできるものがあることは嬉しいことだ。