欲望との対峙

 服を数十着、靴も何足か処分した。もうすこし身軽な気分になるかと思ったのに、残された服を眺めてみても、もう着ないものがまだあるように思えて、残尿感のような感覚が消えない。自分にとって必要なのかそうでないかを、自分が決められないことに対する居心地の悪さである。
 自分のなりたい姿がわからない。私が性懲りもなく自分についての文章を書くことをやめられずにいるのは、そこに尽きるのかもしれない。自分のことを知りたくて、ずっともがいている気がする。自分語りという言葉は否定的な文脈でつかわれることが多いけれど、実のところ、自分語りをせずにいられる人のほうが私にはよくわからないのだ。

僕にも君にも/すべての命には潜在的な"価値"がない(烏哭)

峰倉かずや『最遊記RELOAD』9巻

 烏哭という人は、すべてを無に帰す能力を持っている。すべては無に帰しうると知ってしまった世界はひどくたよりない。たよりない世界で生きていくことは、心もとない。
 また彼はこうも言う。

自己の存在を確認する為のツールはふたつある/ひとつは”自我”/──しかしこれは単一では成立しない/自分が歩んできた経緯/すなわち縦軸の「時間」が加わる事により自我は形成され/「未来」という概念に希望を、あるいは絶望をも見出すことができる/…もうひとつは”他者”/他者の中に映る自分の存在を確認する事によって/あたかも鏡のように己の価値を見出し/更にはそれが自我の確立にも繋がる

同上

 インターネットによって他者の物語(実在/非実在を問わず)へのアクセスが容易になったことで、自分の物語が特別だと信じることはむずかしくなった。自己の存在を確認するツールとしての自我は、こうして無効化される。同時に、物理的距離が取り払われて、他者への遠近感が失われた。目に見える他者の数が増えるということは、そのぶん、そのひとりひとりが目に映りにくくなるということだ。すなわち、”他者”もまた、自己の存在確認ツールとしての有効性が薄らいでいる。
 そうして、烏哭がいうように、自分の存在に潜在的な価値がないという事実を引き受けざるをえなくなったとき、それでも生きてゆくには、自分にとって絶対的な価値を持つものを見つけるしかなくなるのではないか。他者にとっての自分、ではなく、自分にとっての他者(これは人間にかぎらない)を存在の根拠にしなくてはならない。

……ああ、早く見つけなきゃ……。そーちゃんが作曲を見つけたみてえに。理が九条を見つけたみてえに。俺の何か……。俺も何か……。(四葉環)

『アイドリッシュセブン』第6部4章3話

 このところずっとこねくりまわしている「自分はどうなりたいのか」というのは、つまりそういう戦いの端緒であると解釈している。私は、自分が死ななくていい理由を見つけたい。
 進路や就職から、何を食べ何を着るかといった日常的なものまで、およそ私の人生における判断について、親(とくに母親)の意思が入っていないことはほとんどない。私自身の意思が抑圧されてきたとまでは思っていないが、誘導されてきたとは思っている(梨木香歩『西の魔女が死んだ』で、主人公がこれとよく似た心情を吐露する場面がある)。今になって海外に出ることを考えはじめていることも例に漏れない。
 親元を離れて、直接的に干渉される機会は減ったものの、何かを判断するときには知らず「母親ならどう言うか」という思考に拠っていることがすくなくない。私がたびたび欲望(こうしたい)と強迫観念(こうしたほうがいい)を混同するのは、私自身の声と、私の内側に再生産した母の声の区別がつかないからだ。これは私のものだ、とはっきり言い切れるのは、誰かを好きでいることと、文章を書くことくらいだ。
 遊びに行くときの私服を決めるときよりも、出勤するときの服を決めるほうが心的な負担を感じずにすむのは、そこに「オフィスに着てゆく服とはこんな服装である」という社会的な基準が、曖昧ながらもたしかに存在するからだ。一次創作よりも二次創作のほうが得意なのも似たようなところだろう。
 いわゆる社会常識的なものであれ、母であれ、原作であれ、拠りどころとすべき基準があれば間違わずにいられる。でも、なりたい自分でいるためには、自分のふるまいを規定する基準を、そういう外的なものではなく、自分の内側に見つけなくてはいけないのだ。
 ひさしぶりに友人と喋りたおしたら、考えたいことも書きたいことも増えてしまった。でもそれには今内側に溜め込んでいるものを一旦出さないとならないので、こうしてぐるぐると文章を捏ねている。まだ自分の欲望との対峙の仕方はわからない。