シコウの計算式

自分の声が聞こえなくなっている。そう気が付いてぞっとした。何を思って、何を感じて、どう生きたいのかが、さっぱりわからない。つい先日まで欲が多いとはしゃいでいたはずなのに、やりたいことをやることに夢中になっているうちに、やりたいことがやらないといけないことになって、ただこなすだけになっている。文章を読んでいて内容が頭に入ってこないことを「目が滑る」と形容することがあるが、今すべてがそういう感じ。おぼえのある感覚で、つまりは谷川俊太郎のいう「心がぎゅうづめ」の状態である。便秘と同じようなものなので、一度溜めこんでしまうと、ちょっとやそっと力んだくらいでは言葉の形を与えられなくなる。これはいよいよまずいと思って、睡眠を削ってでも書こうとしたのに、けっきょく何ひとつ出てこなくていたずらに画面を眺める時間を過ごした。楽しくて幸せだったことはたくさんあるはずなのに、そのどれもが、言葉に落として向き合う余裕のないまま流れてゆくことが心底怖い。書いていなければ、考えていなければ、私は私の形を保てないのに。

//

あと何回がんばればいいのだろう、と毎朝起きるたびに思う。あと何回、またがんばれなかったと自分に失望すればいいのだろう。めっきり意欲みたいなものが消沈している。明日こそ早く起きて、勉強や読書に勤しんでやるぞと思って眠りにつくのに、朝になれば起きようと思っていた時間をとうに過ぎている現実に直面して何もかもいやになる。

//

それでも忘れてしまうよりは良いはずだからと、性急さのにじむ記録だけでも残しておく。

ある週末。所用で母校に立ち寄って、卒論指導教員だったゼミの先生と卒業ぶりに再会した。敬虔なクリスチャンで、毎朝生徒のために祈っているという優しい人だ。大学四年当時は精神的な不調の真っただ中で、かなり心配をかけたのだが、今それなりに健康で幸福に生活できていることを報告できて、どこか肩の荷が降りたような感じもあって嬉しかった。卒業のときにもらった慈愛に満ちた手紙をこのごろずっと読み返したいと思っているので、年末に実家に戻ったときに探したい。

午後は大好きな友人と落ち合って、愛するカフェで美味しいものを食べて、酒を飲んで、セブンティーンのコンサートに行った。通路から客席へと通じる黒いカーテンを開けた瞬間、会場に満ちるざわめきに、一気に実感がわいて思わず泣きそうになっていた。BE THE SUNと彼らが掲げるとおりに、太陽の光を存分に浴びた。尽くす言葉がいくらあったって足りない。ホシくんは「最高で最後のアイドルになります」と話していた。ウジくんは「新時代をつくる」と言った。太陽になるというだいそれた宣言も、最高で最後のアイドルになる、新時代をつくるという決意も、けっして驕りや軽口などではない。その言葉の重さを、とてつもなさを、彼らはちゃんと知っていて、それでもそれを引き受けてステージに立ち続けることを選んでいる人たちだ。ジョンハンさんは「ぼくの20代を輝かせてくれてありがとうございます」と言っていた。そういうふうに思える時間を、あの人たちが過ごしてきたことがほんとうに嬉しいと思った。そんなものを背負わなくたって良い、と言いたくなることもあるけれど、彼らがそういう自分たちであることを選んできて、それが輝きに満ちたものだと思っているのならば、それがすべてだ。BE THE SUNの太陽は意味するところは身を焦がすような灼熱かもしれないけど、体をあたためてくれる柔らかな日差しとしての太陽でもある。太陽になると掲げて、ほんとうに太陽なのである。好きな人なら、たくさんいる。それでも、私にとってセブンティーンは最初で、唯一で、最高で最後のアイドルだ。もともとジュンくんのイメージとして月のモチーフを体に彫り込むつもりでいたが、この日のコンサートを終えて、太陽も彫ろうと思いますと友人に話した。この日見た光を、いつも思い出せるように。

また別の週末には、連れと7月ぶりにまともなデートをした。顔はしょっちゅう合わせているが、休みが重ならないのでなかなか遊びに行けていなかったのだ。上野の科博でやっている特別展に行って、前から目をつけていたキューバサンドの店に行ってモヒートを飲んで、街を散策して、神谷バーで電気ブランを飲んで、ロシア料理を食べてウォッカを飲んでいた。よく歩いた。

友だちとセブンティーンのライブビューイングにも行った。ジュンくんが「みなさんが僕たちの太陽です」と言うのをきいてぐずぐず泣いてしまった。そっくりそのまま返したい。この日のスローガンが「永遠にセブンティーンの未来を照らす光になるよ」だったことに対して、ミンギュが「それなら僕たちは皆さんの現在になりますね」って言ってたのもしみじみと感じ入ってしまった。これってすごい言葉だ。未来はやがて現在になる。セブンティーンがセブンティーンでいられる未来をファンが作って、それをセブンティーンが現在(現実)にしてくれる。アイドルを好きでいることは罪の側面が強いと思っているけれど、セブンティーンを好きでいると、それもまるきり真実ではないのだと思う。セブンティーンのファンでいられることが幸福だし、そう思えることが誇らしい。

アンコール、すっかり定番になった無限アジュナイスの幾度目かで、会場が熱気に包まれるなか、ぼうっと会場をいつくしむように焼き付けるように静かに会場を見渡してたホシくんの姿が目に焼き付いている。画面に映ったのはほんの一瞬だったけれど、私がジュンくんとならんでホシくんのことを追うようになったときのことを思い出した。2018年のSVTコンの、たしか名古屋公演だったはずだ。その日は比較的ステージが近い席で、アンコールMCでメンバーがそれぞれコメントを話しているなか、やっぱり静かに会場を見つめていたホシくんの姿を近くで見上げていた。この人って、こんなふうに大事なものを見るんだ、と思ってすっかり心を奪われてしまったのだ。時間は流れて、世界もだいぶ変わってしまったし、セブンティーンのいる場所も前とは違うけれど、でも彼の中にそうして会場を埋めつくすペンライトを美しく愛おしく思う部分が変わらずにあることが見えてほっとしたような気持ちにもなった。

//

乙女ゲーム『薄桜鬼』から、幕末に関する書籍をいくつか読んでいる。歴史はてんで苦手で、学生時代には興味を持ったこともなかったのだが、ここに来ておもしろさがわかるようになってきた。私の目に映る2022年の世界と、ほんとうに、地続きなのだという実感は、たぶんこの年齢にならなければ得られなかったもののひとつだろう。死なずにやってきて、よかったと思う。日本という国がどう変遷してきたかを知ることは、望もうと望むまいと自分のアイデンティティに組み込まれたものの成り立ちを見つめなおすことでもある。

//

ナイトメアのメインコンポーザーの片翼である咲人さんが、個人のアーティストサイトで連載している楽曲解説をこのところ読みふけっている。ここでどんなエフェクトをかけている、ここで転調している、ここのコード進行はどういう意図である、という内容が一曲ごとに二千字以上と、かなり読みごたえがあるものだ。これがすごくおもしろくて、曲を聴きながらその曲の解説を読むということをやっていると、時間が際限なくすぎていく。何が楽しいって、それまでぜんぜん聞こえていなかった音が認識できるようになることだ。私は咲人さんがひとつひとつこだわりぬいた「なぜここでこの音なのか」を全然拾えていなくて、漫然と聞いているだけだったのだ、というのがわかる。それはさみしいし悔しいし、丁寧に解説してもらったところで技術的なコード進行の話なんかは理解しきれないのだけど、それでも、この人が魂をこめて音楽を作っていることはずっと前から知っていた気がするし、それをこうして確かめられることが嬉しい。好きになった十代半ばの私に咲人さんのそういう姿が見えていたとは思わないが、この楽曲解説の記事を読んでいると、自分の嗜好・思考・志向はこの人の影響を受けているのかもしれないと思わされるものがある。

私はよく、あるきっかけで好きになった人の他の面を知るにつれて、好きになるべくして好きになった人だったのだという確信を深めていくことを「答え合わせ」と形容する。確信を深めるというのは、その対象と、自分の中にすでに存在した要素が一致する、親和することを確認する体験だ。今こうしてナイトメアと咲人さんのもとに戻ってきたのも、そう。知らなかったのに、知っていた。そういう感覚。

いろんな人や作品や物事と交差して、その交点の足し算・掛け算が私という人間を形作っていく。生きていくことは計算式を編んでいくことだとすれば、算出された値のなかでナイトメアが占める割合は、いくらにもならないだろう。それでも、その計算式の連なりのごく序盤に彼らという要素があることは、やはり以降の私の方向性が決定づけるうえで重要だったように思う。その文脈で、好きなものを今も好きだと思えることは、みずからの道のりをも肯定することに等しいのだ。

//

仕事、調子がいいというか、またひとつステップアップしたという感触がある。足掛け六年、この道をやってきて、もちろん業務に対する専門知識も得てきたけれど、それ以上に手にしたのは未知への対処スキルだ。やったことのないことに対して、どんな思考法で、どんな順番で整理すれば道筋を立てられるかがわかるようになった。仕事が怖くなくなった。これは会社で培った部分もあるが、学生時代に「学び方を学べ」とたたきこまれたのが役立っているかもしれない。職種さえ同じなら、今違う領域をいきなりやれと言われても、たぶん、まあそれなりになんとかできるだろう。楽になったことに違いはないが、それは「こうすれば生きていける」というやり過ごし方を身に着けてしまったということでもある。今の私が軸とする生活は、私の予想の範疇に入ってしまった。このままここから出ないかぎり、この先、生きていくのってどんどんおもしろくなくなるのかもしれない。それは嫌だ。

舞台、ライヴ、コンサート。そういう刹那性のあるものにひどく執着するのは、だからなのかもしれない。一度きりの、再現不可能なもの。感性が近いところにあると思っている友人にすすめてもらったバタイユの入門書を読みはじめたところだが、これがおもしろく思えるのも、ここに通ずるところがあるような気がする。理性は人間の一側面にすぎない。

//

かつての私は、「完璧な人間」からそれぞれ欠けているものがあって、その欠けた部分の違いこそが個人の一意性を成立させるのだという、いわば減点法式の人間観を持っていた。しかし、私が日々生きて新しく接する物事のほとんどは、答え合わせ的な出会いであり、すなわち計算式を編むことは、既存の要素を塗り固めて強化していくことでもある。こう言ってしまうとおもしろみがないようにも思えるけれど、自分の内にかかえる要素が多くなるほど、未知を楽しめるようになるということだ。未知を未知のままで終わらせる可能性が低くなるということで、それってめちゃくちゃ楽しいはずだ。

ナイトメアの"Cry for the moon" という曲に、こんな詞がある。

嘘だらけでも まやかしでも
唯一の物語
描いて 塗りつぶして
事切れるその日まで
確定される一生じゃない

「死は生涯の完成だ」とマルティン・ルターは言ったとか言わないとか。これもけっきょく、私が体に彫り込んだ "I'm better than yesterday" ということなんだよなあ、とまたひとつ解が計算式に組み込まれて、私という存在が強化されていく。生きてゆくのがつまらないなんてまだ思いたくない。