劇団四季『ノートルダムの鐘』鑑賞後記②

夏の横浜公演に続き、4回目の鑑賞。チケットを知人がとってくれて、京都公演の初日に行ってきた。弾丸の日帰り遠征だったうえに、東海道新幹線の遅延に見舞われて体力的にはかなりきついのだが、どうしても風化してしまう前に残しておきたくて、睡眠不足を覚悟で書きはじめた。

感想に入る前に。この作品を見るたび、エスメラルダやクロパンと同じ境遇の人々が、2022年の日本にもいることに思いを馳せ続けていようという気持ちを新たにする。日本は難民認定率がきわめて低い国だ。それは、様々な事情で生まれた場所にとどまることができない人々にとって、代わりの安住の場所になれないということだ。「今度こそ、長く暮らせると思ったのに」とクロパンがにじませる失望を、日々誰かに味わわせている。外国人は安心・安全を脅かし、「我々」の権利を侵害する存在なのだと、フロローと同じことを声高に主張する人はそこら中にいくらでもいる。そういう国だ。この作品は、15世紀フランスを舞台にしているけれど、けっして私たちから隔絶された物語ではない。フロローの暴虐に怒るのと同じだけ、現代日本にたしかに存在する外国人差別に対しても怒る人が増えることを願う。かくいう私とて、ずっと怒り続けていられるわけではないし、いつも正しくあれるわけじゃないけれど、フィーバスが「パリの人々よ、こんなことをゆるすのか」と声をあげたように、私もそうありたいと思うから。

ということで、感想。ネタバレ配慮しません、自衛ください。

SNSでもさかんに言及されていたけれど、演出変更が随所にあって、感情の機微がこれまでよりも可視化された感触があった。とはいえ、もともとこれまで3回しか見ていないこともあって私自身で明確に変更を認識できたところはそう多くないので、その観点にこだわらずに個人的に印象に残ったことを記していく。アンサンブルに注目できるほどの余裕がないので精進したい。

寺元さんのカジモドは3回め。私はこの人のよく伸びる歌声がほんとうに大好き。それから、純朴さ、かわいらしさも魅力だと思う。とくに恋を、というより他者との対等な関係を初めて知った喜びを歌う『天国の光』などは、ほんとうに瞳がきらきらとしていて、恋をして世界がひときわ明るく見える感覚がよく伝わってきて、胸がつまりっぱなしだった。しかし、「かわいい」という言葉は基本的に非対称な関係性において使われるものだ。その成り立ちからして元来相手を不憫に思う意味だったらしいことを考えても、強者が弱者を「自分に無害な存在」と軽んじる文脈になりやすい、きわめて暴力的で危険な言葉だと私は思っている。障害を持ち、精神的に未成熟な存在として抑圧されてきたカジモドに対し、その純朴さを「かわいい」と愛でることには自省的でありたい。

佐久間さんのフィーバスは2度めだったのだけど、すごく演技が好きだった。フロローとの初対面シーンで、丁重に接しつつも、証拠もないのにジプシーの逮捕を命じるフロローに対する不信感や、道化の祭りでのカジモドに対する迫害を目の当たりにしたときの戸惑いだったりがありありと表情に出ていたのが、彼の人となりをよく表していて良かった。他の人の感想で、「「『パリのため犯罪者と戦おう』と歌うときに全然そう思っていなさそう」というものを見かけたが、私も同感。そういう演技が前段にあるからこそ、フロローに娼館に火を放つことを命じられて反抗し、免職を言い渡されたときに言う「大変光栄です!」という言葉の力強さが活きる。それは虚勢などではなく、長いものに巻かれて自分の立場を守ろうとしてきたフィーバスが初めて真に自分の本心をあらわにした瞬間だから。

それから、戦争の記憶が色濃く滲んでいて陰りのある気配のまとい方が上手で、それゆえにフロローの提案を受け入れてでも生き延びろとエスメラルダに諭そうとする動機に説得力が増しているように感じた。戦争を経験し、凄惨な死がいまだ瞼の裏に焼き付いているフィーバスにとって、死ぬことは尊厳を奪われることに等しく、命があることがなによりも大事で、そこが「どう生きるか」を重んじるエスメラルダとの違いでもある。エスメラルダの死は彼女の尊厳が保たれた(フロローのものにならなかった)という意味でけっしてまったき悲劇ではないと解釈しているのだが、フィーバスにとってはそうではない。だからエスメラルダの亡骸から垂れ下がった手を離すことができずに縋り付いてしまうのだろう。4回めにして私の解像度が上がってきたというのもあるだろうが、総じて、そういう感情の連続性がきちんと見える演出になっていたと思う。ところで、このふたりの違いは、『いつか』で正義の夜明け、人が賢くなり平等に暮らせる時の訪れを心から信じているフィーバスと、あくまで叶わぬ夢物語として歌うエスメラルダとの違いでもある。ディズニー版ではハッピーエンドだが、このふたりは悲恋で終わるべくして終わるのだ、というのがこういうところからよく見えると思った。

2幕でカジモドがフロローを突き落とすまで、フロローの前に立つカジモドの背中がことさらに曲がっていたのも印象的だった。前からこんなに低かっただろうか?と思うほど(私が気づいていなかっただけという可能性もあるが)。まっすぐ立ってカジモドを見下ろすフロローと、フロローを見上げるカジモドの目線の違いによって、支配/被支配の抑圧関係が視覚的に明確になっていて残酷だった。だからこそカジモドがフロローを突き落とすときに伸び上がることで、その視線の位置関係が逆転する場面がいっそう強烈なものになっていたと思う。

たまたま行きの新幹線でジョルジュ・バタイユに関する本を読んでいたのだが、期せずしてこれがものすごく観劇に意味を持たせてくれたような気がする。フロローがエスメラルダへの劣情にからめとられ、聖職者としての一貫性を失って支離滅裂なことを口走るようになるところなど、まさにバタイユのいう「人間のばかばかしくて恐ろしげな闇」の表出そのものではないかと思って。エロチシズムは禁制を前提にするというのも然りで、彼は禁欲を是とする立場だったからこそ、その道徳と、その道徳を実践できない自分との引き裂かれに苦しむことになったのだろう。

婚姻制度批判など、フェミニズムでは語り古されたテーマだけど、今日フロローを見て、キリスト教世界における婚姻とは性欲の正当化の手段なのだなとあらためて感じて、しみじみと考えこんでしまった。婚姻制度・戸籍制度に反対するフェミニストの感覚からすると、精神的な親密さ、性的関係、子育てという異なる機能をすべて婚姻というひとつの制度でまかなおうとするのは、ひたすらナンセンスでばかばかしく見えるものだが、避妊が技術的に不可能な時代において性行為と出産は不可分であったし、出産と子育ても不可分だった。出産以降は女だけの私的領域の活動とされてきたから、男にとって重要なのは性行為だけだ。ただ肉欲そのものが背徳とされる以上、それを正当化するには「神の承認を得た性交相手」の仕組みをとるしかなかった。そう考えてみると、フロローがエスメラルダに「私か火炙りかどちらか選べ」と迫るのは、支離滅裂なようでいて、彼の中では理屈が通っているのかもしれない。なぜなら、エスメラルダがフロローを選んだ瞬間にそれは「正当な」性欲になり、フロローは自分を責めなくてすむから。

観たあとに言いたいことがたくさんある舞台は良い舞台である、というのが私の持論で、そういう意味で今日はとても深く響いた公演だったと思う。次は来週、年内最後の現場だ。この一年をこの作品で締めくくれることが嬉しい。