2023/1/23

8時すこし過ぎには目をさましたのだが、本を読む気にも勉強する気にもSNSを眺める気にもならず、音楽をかけてぼうっとしたまま30分近くすごした。うっすらと、そこにあるのかも判然としない、気のせいかもしれない希死念慮らしきものが霧のようにそこいらに充満している。執拗に曖昧な言い回しをしているのは、今の自分が死を望んでいると認めることに後ろめたさがあるからだ。私のこれは「本当の」苦しさではない、私程度のぬるい生き方をしていて死にたいと思うことなどゆるされないという思考がこういう表現を選択させる。「本当の苦しさ(言わずもがな、「偽物の苦しさ」と対になる表現である)」というのは、ひとたび言葉にしたら他者にも適用されうるのですごくよくない感覚なのだが。終わることをいまだに考えてしまうのは、私の中にその轍がもう深々と刻み込まれてしまって、水が溝に導かれるように気持ちがするすると重力にしたがってそちらに流れていくから。その溝を掘ってみずから深くする状態からはとっくに抜けているはずなのに、残された跡はまだ消えない。生きることは重力にあらがい続けること。望まぬ筋トレをずっと課され続けること。そういえば気圧が下がると言っていたから、そのせいだろうと理解して、考えることをやめようとする。

おにいさんが先日の配信で今年は資格をとりたいと話していて、それを聞いた時には私も何かがんばりたいと思ったはずだったのに、何もしないまますでに10日が経つ。がんばりたいとがんばろうの間隙が埋まらないまま、10日。勉強したい!という、かつては馴染み深かったはずの感覚がやってくるのをずっと待っている。自分の願望や欲求なんか無視して、仕事と同じような義務に落としてしまえばいいのかもしれないけど、どうしてもそれが嫌。仕事以外のところで自分の感覚を軽んじることは、すすんで自分を殺しにいくことだと思ってしまう。やりたくてやるのでありたい。楽しいと思って勉強したい。

「人ってのは文学のために死ねるんでしょうか」

土曜に観た『日本文学盛衰史』の序盤、北村透谷の葬儀の場で、参席した人が口にする問いかけだ。彼が死ぬことを選んだわけなんか私にも誰にもわからないけど、はっきり言えるのは、今の私にとってこの問に対する答えが否であるということ。二葉亭四迷こと長谷川辰之助が劇中、ぼそりと「書きたいと思うこともない」とこぼしていたのがずっと耳に残っている。書くことをやめられずにいるし、やめるつもりもないが、以前のように生きる証明たりえなくなってしまった。自分のやっているものが文学とよぶに足るものだとは思わないが、言葉の力は、劇終盤で太宰たちが予言したように希釈され無効化され、誰のものでもなくなりつつある。「小説は誰にでも書けて、誰も読まないものになりました」という台詞を受けて、私はこの先どうやって生きてゆけばいいのだろう。読まれるために書いているわけじゃないと自分自身に向かって言い続けてきた、その言葉の欺瞞に今立ち返る。読まれなければ書く意味も、公開する意味もないに決まっている。言葉は誰かとつながるためのものだから。

どうにも気持ちが冴えない日だったけれど、夜連れが来て一緒に食事をしてからはすこし上向いた。落ちているときに相手に感情ケアの役割を担わせてしまいがちなのが嫌。