2023/2/13

夢のような日々が終わったとおもったら雨空である。千秋楽を迎えて、続編上演が発表された喜びで昨日は悲しみに浸る間もなかったが、一夜明けてみるとやはり喪失感はたしかにある。最中は考えないようにしていたが、熱に浮かされていたことに違いはない。推し活なんていうものは、世間でもてはやされるほどに美しいものではない。程度の多寡はあれど他者への依存でしかなく、退屈でどうしようもない惨めな自分自身とままならない社会から目をそらすための劇薬である。灰色に満ちたこちらの世界が、生きてゆくことの本編だ。自分と向き合う時間が戻ってきたぞ、とナイフの切っ先を喉元に当てられている気分。今になって連れの顔が見たくなっていて、自分の身勝手さに血の気が引く。5年前に振られた時から何も変わっちゃいない。

演劇とは生き方の提示であるべきだと話す俳優がぶつけてきたあの舞台を、あの熱を受けて、こんなところでくすぶっていられない、と思う。激流に翻弄されて、流されるままに海にたどり着くような生き方をしたくない。あの舞台を私の中でなかったことにしたくないし、私の血として、肉として、いのちとしてあの作品を食らい付くしたい。でも、じゃあどうするか。どう生きるか。これに答えを出さないまま熱に身を任せているだけでは、ぜったいこの先気持ちが立ち行かなくなる。

身軽になりたい、という感覚がまた強くなっている。すべてを投げ出して、脱ぎ捨てて、どこかに消えてしまいたい。私の生きてきた29年間がそれをゆるさない。もっと自由に死にたがっていられたのは、それだけ私の足にまとわりついて地上につなぎとめようとするものが少なかったからなのかもしれない。過去が私を現在に縫い付けて離さない。自分はどこにも飛びたてない、という無力感をずっとわずらわしく思っている。ぜんぶ振り切りたい。過去にそうさせることをゆるしているのはほかでもない自分だけど。

自分の欲望の向く先がどこにあるかわからないというのが、何よりも怖い。書いていたいのに、書きたいものがわからない。学びたいのに、学びたいことがわからない。ずっとそのことを引け目に感じている。私は未だに私の唯一を探し続けている。

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インターネットを潜航していれば、悪意を目にすることにもなる。昔に比べれば、自分と無関係の悪意に傷つくことはなくなってきた。そうして耐性がついた分、悪意の吹き溜まりみたいな場所にも長く留まることができるようになってしまった。害しかないとわかっていても見ることをやめられずにいて、そんなことをしていたらやっぱり魂が濁ってきた感じがある。交わる人間がおよそこちらに気取られずその身のうちに悪意を抱えているかもしれないこと、そういう場に集う人々がそのことをあたりまえのものとして受け入れていることまで含めて、人間が怖い。気心のしれたかぎられた相手を除いて、このところ他者に対して一切の期待をできず信頼の意志を放棄しつつあることには、この遅効性の毒の影響もある。

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鬱屈とした日記になってしまったが、公演期間は毎日ほんとうに楽しかった。あらゆるものを愛してきて、好きでいることが義務感にすりかわる経験を、そうして自分の中に燃え上がった炎があっという間に消えてしまう経験を幾度もしてきたし、今のこれがそうならない保証などどこにもない。でも、すくなくともこの2週間は、観劇できる日がほんとうに毎日ずっと楽しみで嬉しくて幸せだった。