2023/2/21

※大島渚監督作品『御法度』(1999)のネタバレがあります。


週末の友人の結婚式に向けて、ネイルを新調した。人差し指と小指が黒、それ以外が派手なグリッター。指先がぎらぎらしていて、気持ちが浮つく。あいかわらず「正しい女」の装いに近づいていることへの抵抗感はあるが、とても気に入った。

連れに誘われて映画を観に行った。最近リバイバル上映をやっている『戦場のメリークリスマス』と同じ大島渚監督による『御法度』である。連れからは「新撰組の映画」とだけ聞いており、このところ薄桜鬼(とその舞台)に熱を上げている私としても興味があったので観に行くことにしたのだったが、思った以上に感じるものの多い作品だった。

ボーイズラブを愛好する人間のひとりとして楽しんだことは事実だが、この作品を諸手を挙げて称賛することは私にはできない。この映画が作られた1999年当時に、今の人権に対する考え方の水準を求めることはできないし、私は過去の作品を、過去の価値観に基づいたものだとわりきって鑑賞することも、そのうえで楽しむこともできてしまう。作品の存在を抹消するべきだとも思わない。でも、今の水準に照らして過去を批判することは有効だと思っているし、そうするべきだと思う。過去に捨て置くべきものは捨て置くべきものだと、2023年の私が言葉にする意味がある。

その美貌で新撰組の男たちを次々に虜にしてゆく美少年、加納惣三郎を演じる松田龍平は、今作がデビュー作である。撮影当時15歳だったことは観たあとに知って、その瞬間、冷水を浴びせられたような気分になった。無邪気にこの物語を楽しんでいた自分の存在が受け入れがたくて。この作品における加納惣三郎は、物語の中の男たちにはもちろん、鑑賞者からも性的な視線に晒されることを想定した作られ方をしている。冒頭、惣三郎の美貌を伝えるために目元や口元にカメラがクローズアップするカットや、惣三郎が無表情で抱かれるシーンなどは、思い返すと吐き気すらおぼえる。性的な描写が物語に不要だとはまったく思わないけれど、役者が性的に消費されることには年齢にかかわらず注意深くあるべきだし、その年齢で、監督が見初めてあの役どころをやらせようとしたというのは、私の今の感覚からすると明確に加害だと思うし、ものすごくグロテスクだ。時代的にインティマシーコーディネーターみたいなのも当然いなかっただろうことを考えると、気持ちが沈む。

いっぽうで、良い意味で心に残る作品であったこともたしかだ。ビートたけし演じる土方歳三が若い桜の木を切り捨てるラストシーンがとにかく好みど真ん中だったのと、武田真治の演じる沖田総司がとてもよかった。物事の核心に迫る明晰さを持ちつつも、それをあえて煙に巻いてしまうようなどことない軽薄さは、薄桜鬼で描かれる沖田にも通ずるものがある。「近藤さんと土方さんの間には誰にも入れないものがある」という台詞に、彼がホモフォビックな存在としてふるまうのは、自身の近藤勇への憧憬を否定するものであったかもしれないと思った。だからこそ沖田は惣三郎を殺さなければならなかった。もっとも、これは近藤への尊敬と執着を隠さない薄桜鬼の沖田を重ねてこその解釈かもしれないけれど……。

土方にしてもそうで、沖田が土方に向かっていう「土方さんは狂人の親玉だ」という言葉は、土方にとってはほとんど呪いだっただろうと思う。上述した近藤と土方の関係性の指摘にしても然りだ。だから土方は惣三郎を化物とよんだし、桜の木を切り倒さなければならなかった。化物として、自分たちとは違う存在として切り離しておかなければ、自分もまた男の一員ではなくなってしまうかもしれなかったから。

友人と私はしばしば自分たちのことを「ホモソーシャル消費部の部員」と揶揄する。連れにその話をしたら「フェミニストも形なしじゃん」と苦笑いされたのだが、フェミニストだからこそホモソーシャルの根ざした世界でのボーイズラブ(ここでいうラブは恋愛や性愛にとどまらない、男と男のあいだで育まれる巨大感情を含む広義のもの)に惹かれるというほうが正しい。ボーイズラブというのは、ホモソーシャルのほつれとして発現するものだからだ。男になれなかった私たちには、ホモソーシャルそのものへの憧れ・羨望がたしかにある。だが、それ以上に、その男たちの絆が綻ぶ様にこそ、救いをおぼえ強烈に惹かれるのではないか。

ホモソーシャルの結びつきを土台から脅かすことができるのが惣三郎という存在だ。彼を主人公とするこの物語は、男社会の脆弱さを皮肉ったものである。そして、鑑賞者もまた惣三郎を性的にまなざすところに引きずり込まれる構造になっているからこそ、その脆弱性への皮肉は、鑑賞者の生きる社会にまで適用される。この映画を見て私がおぼえてしまうカタルシスは、女である私が男を性的にまなざす立場にまわることで、どちらかといえば男によって性的にまなざされる立場であることを強いてきた男社会に対する復讐心を満たすといった薄暗い欲望の発露であると同時に、ホモソーシャルが打開可能なものであるという希望をそこに見るからでもあるのかもしれない。こんなのは全部後付けの理屈だし、もっと丁寧にフェミニズムとBLの関係を論じた言説はきっといくらでもあるだろうけど、私は男たちの世界のほつれとしてのBLが好きなんだなあというのを体感しながら見ることができたのはすごく楽しかった。

みたいなことを考えていて、BLと現実の同性愛をまとめてあつかうことにはもうすこし注意深くなったほうがいいのかもしれないと思った。「BLはファンタジー」という言説は、現実にいる同性愛者の存在を透明化するという点で賛同できないものだけれど、現実に存在する多様な関係のひとつのあり方を、ホモソーシャルの解体のためのツールとして愛好することは果たして誠実なことだろうか?という気持ちがある。BLに惹かれることと、同性愛差別に抗うことは両立するけれど、そこを等号で結ぶのは違う気がする。ここはもうすこし時間をかけて掘り下げる余地がありそう。

映画のあとは連れが目をつけていた飲み屋に行って、まあまあ酔っ払った。帰りにスーパーに寄って、お菓子のパッケージを見ながらけらけら笑っていた記憶がある。あとなぜかカルーアのでかい瓶を買った。帰宅してからも『スリー・ビルボード』の撮影ビハインド映像を見ながらカルーアを飲んでいた。連れと飲む酒がいちばん楽しい。