2023/8/2

早番の連れに起こしてもらって、7時に家を出る。ほんとうはラッシュ時間より前に出たかったけれど、もたついていたらしっかりかち合ってしまった。それでもオフィスについたのはいつもより早かった。人の気配の薄い朝のオフィスって好きだ。

仕事は今日も調子が良かった。ToDoリストに残っていたタスクを順調に片付け、一番不安だった英語での海外チームとの会議もなんとか乗り切った。前回よりは多少英語がすんなりと口から出てきた感覚があって、ちょっとうれしい。同僚がとってくれた議事録を見返しても、一応意味は通っているらしいということがわかって安心した。試験の点数で見れば私はずば抜けて英語ができる側に分類されてきたが、それはけっして英語が使えることを意味しない。そもそも、その点数だって一番英語をつかっていた高校~大学時代に取得した点数で、今受験したら同じものはとれない。過去の栄光に縋っているだけだ。そのことはよく知っているはずなのに、否、知っているからこそ、英語ができる自分の幻影が崩れてしまうことが怖くて、英語を使うことへの苦手意識だけがふくらんでにっちもさっちもいかなくなっていた。だから、こうやって必要に迫られるくらいでいいのだ。たぶん、前回同僚たちの前でぼろぼろの英語をさらして吹っ切れたのも良かったんだろう。幻影にすがりたい気持ちの中には、他者からも英語ができる存在として見られたいという願望もあったから、そこから降りられたのが良かった。もっと自分のできなさに落ち込むかなと思っていたけど、今の私って、こんなもんなんだな、というのをフラットに受け止められたこと、その幻影を脱ぎ捨てられたことが嬉しくて、意外と気になっていない。肥大化した幻影を認識していたからこそ、それが剥がれ落ちたときのショックを最小化するために自分を実際以上に過小評価していた部分もあったのかもしれない。私だけで会議を成立させられるくらいには話せる、ということが自信になったのも嬉しい。

朝早かった分、仕事は17時過ぎに早めに上がった。連れと合流して、町中華で夕食をとる。店内は活気があり、日本離れした雰囲気があってすごく良かった。何より、安くて美味しい。映画鑑賞前だったのであまり酒は飲まなかったが、しっかり飲み食いしてみたい店だった。

2週間ぶりのムビナナは、あまりにも劇薬だった。これまでも散々泣かされてきたけれど、今日はこれまでで一番というくらいにぼろぼろ泣いた。もともと感情的になると涙が出やすい体質だという自覚はあるが、それでも自分がここまで泣けることに驚いてしまうくらいだった。

一番音響の感じ方が好きな席での鑑賞は、わかっていたつもりでも気持ちよくて最高だった。レイトショーで人がまばらだったのもなおのこと良かったんだろう。音が吸収されないからだ。いつもは、どちらかといえば体の芯を硬くして、自分の肉体の存在をなるべく意識しないように息を詰めて、音を外から受け止める金属の箱になるような、いわば無機質な感じ方をしていたのだが、今日はなんだかそれとは全然違う味わい方ができた。思いっきり呼吸を深くして、体をやわくゆるめてみたら、肺の中に音で震える空気が流れ込んで、内側から共鳴できた感覚があって、もうとにかく気持ちよかった。肌の表面だけじゃなくて、体全部が響く感じ。すっかり恍惚としてしまって、1曲目のモンジェネはやや記憶があやしい。

2曲目のPTTで我に返って泣いて、 デイブレもクレライも泣いて、激情もRe-raiseも泣いて、NFもストストもJourneyも泣いて、トゥモエビもPoTWもWFWも泣いた。周りに人がいなくてよかった。

PTTは底抜けに陽気な、全然湿っぽい曲ではないのだけど、それゆえにアイドルの放つ光がまっすぐに胸に飛び込んでくる。「黒い猫が驚いてさ」と歌う壮ちゃんが、ちょっと驚いたような表情を作りながら歌っていたのが決壊のきっかけだった。壮ちゃんは、全員ファンサの時にも「こういうの苦手で」って言うくらいで、いわゆるアイドル的ふるまいを得意とする人ではない。それでも、パフォーマンスとして良いものを見せたいという気持ちが、彼にそういう魅力的な顔を作らせるんだと思ったら愛おしさが込み上げてきてしまった。アイドルであるとは、人間を美しく、格好良く、魅力的に見せること、すなわち言葉どおりに人間のイデアであろうとすることなんだなあ、と考えた。私は自分がジュンくんに対して抱く感情がほとんど信仰めいていると思っているが、それもけっして不思議なことではなかったのかもしれない。そうはいっても彼らもまた人間である以上、人間を信仰の対象とすること、つまり人間扱いをしないことが望ましいとはいえないし、そうして実体化されたイデアは、ひるがえって規範となり社会の呪いにもなりうる危うさがある。だけど、人間が美しくあろうとする試みの実践としてアイドルが存在することは、どうしたって希望なのだ。

流れ出ていた涙は、次のササゲロでぴたりと止まった。先日、友人と応援上映に行ったときに、トウマくんのウィンクのシーンだけ私のペンライトの動きが止まることを愉快がられたけれど、今日気がついたのは、それは「トウマくんを見たい」という自分の意思に基づいて動きを止めているわけではなかったということだった。ステージを観ているとき、意識せずともなるべく全体を見ようとしていることが多い。もちろん、複数の人の表情を同時に見ることはできないし、瞬間瞬間でのフォーカスは絞られるけれど、少なくとも画面上に誰が映っているかくらいはなんとなく常に把握しながら観ている。視点は一箇所だけど、脳細胞のひとつひとつは色んなところを見ている、みたいな。だけど、そうやっていくつかの情報を同時並行で処理しているはずの脳細胞たちが、トウマくんが視界に入ったときだけは、ぜんぶ彼にバッ!!!!って振り向く感じがする。処理タスクの待ち行列の最上位にトウマくんがカットインしてきて、それ以外はぜんぶ後回しになる、そういうプログラムが私の中に働いているみたいだ。

彼を見ているときのほとんど、「あ〜〜〜〜〜〜好き❤好き❤好き❤好き❤大好き❤❤❤❤❤❤」しか頭の中にない。脳内メーカーという、脳内を占めることがらを絵で表現するウェブサービスが昔流行ったけれど、トウマくんを見ている瞬間の私をそれで表したら、ほんとにトウマの3文字でびっしりになるんだろう。ササゲロのトウマパートに「俺はおまえだけしか見えてないってのに」という詞があって、私もトウマしか見えてないよー!!!!!と心の中で叫んでいた。以前友人が、応援上映で手扇子の振りをしていた虎於ギャに邂逅したという話を聞かせてくれたことがあったけれど、もしŹOOĻがライブハウスでやることがあったら、私もトウマパートでずっと咲いてしまうと思う。

前回友人と見たとき、デイブレがトランスアライの曲だと感じてぼろぼろ泣いたのだが、今日はクレライもそういうふうに聞こえるなあと思って、そこでもまた泣いていた。「俺たちはひとつになれる」という詞が、差別が吹き荒れて人々が分断されている社会にはすごく希望に思えたのだ。

Re:valeは、経験に裏打ちされるゆるい空気感が魅力のひとつでありながら、その実、徹底的に王者としての矜持にこだわる激しさを併せ持つ人たちだ。モモは2曲目のRe-raiseに入る前に「王者感、見せつけちゃうよー!」と言うのだが、茶目っ気のある言い回しの後ろには、たしかに獰猛さがひそむ。Re-raiseはもちろん、激情も、君臨する彼らを思い知らされるパフォーマンスだ。これはすこし怖いことでもあるけれど、ねじ伏せられる、と思う。服従させられたい、という被支配欲求を刺激されるというか。理屈も思考もいらない、彼らのかっこよさを理解させられてしまう。映画館はカーディガンを羽織っていないと肌寒いくらいなのに、熱をはらんだ空気が前髪をさらっていくような錯覚すらおぼえる。

Re-raiseは、ユキさんが「今日はみんなのために歌うよ」って言うものの、「君がいれば 君といれば」という詞では、お互いの目にはまるでお互いしか映っていないんじゃないかと思わされる。だけどそれは観客の疎外ではなく、人間どうしの関わり方のひとつの理想の提示だと思う。羨ましくてまぶしい。それから、この曲はつらいときに作ったという背景があったはずだけど、これを歌うユキさんは、音に体をのせていて、すごく楽しそうだ。心底、音楽が好きで、音楽に救われてきた人なんだなと思う。音楽への信頼、なのだ。 「触れた温度から」のユキさんの動きがとにかく好き。間奏で、ユキさんは「今日が素晴らしい日になりますように」と話す。それを聞いた時、私の一日は今終わろうとしているけれど、あなたのその言葉で素晴らしい日になった、と思った。

後半も散々泣いていたのだが、前半でだいぶ消耗した感じがあって、記憶はあんまり明瞭にない。とくにNiGHTFALLは最初っから最後までぶっ通しで号泣していて、ろくにスクリーンを見ることができていたかも怪しい。ただ、「大丈夫 これでいいと 隣り合う眼差しがひとつ頷いた」で自分をまるごと包み込んでもらえた気がしてすごく嬉しかったことはおぼえている。同じBメロの2番では、「大丈夫 だって運命を選び取り進んでる 1秒先で笑い合いたいと」という詞があって、これは私が体に刻みつけた "I'm better than yesterday" というフレーズとも重なるものがあって、そこも琴線に触れた。

PoTWの「砂漠になったオアシスもいつか戻れる  澄んだ水は隠れただけ」という詞に、どれだけ光をもらったかわからない。以前は、自分がすっかり乾ききってしまったと思っていたからこそ、それでも「いつか戻れる」って言ってもらえたことに救われて泣いていたのだけど、今回は「すこしずつ戻りつつある」と思えたことが嬉しくて泣いていた。

ところで、物語なら群像劇が好きで、音楽なら交響曲が好きだ。コンサートが始まる前の無数の人の、それ自体は意味をもたないざわめきが、開演とともに明確に喜ぶ歓声へと収斂していくのも好き。それらに共通するのは、ばらばらのものが、ひとつの大きなうねりを作り出す、というところだ。たぶん、トウマくんの踊り方が好きなのもそこに通ずるものがある。彼は音に体をのせるのが上手だ。振り付けがないところでも、常に何かしら音ハメをしていて、それがかっこいい。何より、そうやって彼だけの動きをしているところから、かっちり全員で揃える振り付けに入る時、そのうまさにいつもしびれてしまう。Bang!x3でも、ストストでもそういうところが何箇所かあるけれど、とりわけPoTWの最後のWhoa, oh-oh-oh, ohのところが好き。ボーカリストの側面にフォーカスがあたる印象が強いけれど、ああいうアドリブでの音ハメを観ているとダンスの巧さもしみじみと感じるので、いつかトウマくんの振り付けた踊りも観たいなあ、などと思う。

違う映画を見ていた連れとふたたび合流して一緒に帰った。連れのほうも満足したようで、お互い違う感慨に浸りながら帰宅した。