2023/8/17

朝からずっと落ち込んでいて、連れに聞いてもらいながらめそめそ泣いていた。生きることが正しいと信じて疑わない価値観を目の当たりにしてしなびている。それが適用される世界で生きていかなきゃいけないのってキツすぎる。出社の予定だったけど午後からにした。連れのてのひらはあったかい。同じものを返せているだろうか、と思う。

出社してからもずっとショックを引きずっていて、後輩の業務の相談を打ち返すのがせいぜいで、ろくに仕事は進まなかった。夜は会社の同期ふたりと食事。転職して久しいけど、数ヶ月おきに飲みに行く間柄だ。何もなかったら腐ってさらに落ちていた気がするからありがたかった。おいしいごはんは救済のひとつ。同期のひとりが、今の会社で一緒に仕事している後輩が私と同じ高校・大学の出身だというので、年代的にはちょうど教育実習の教え子の代かなあ、と何の気なしに名前を尋ねたら、そのまさかだった。私が担当していたクラスの生徒!彼から連絡をとってもらったら、タクシーで駆けつけてきてくれることになって、9年ぶりの再会を果たしたのだった。おぼえていてもらえたことが嬉しかった。実習期間の3週間、生きてきたなかでもっともつらくて、もっとも楽しかった時間だったから。教員と生徒としてではなく、同業のおとなどうしとして会うことにはどうにも落ち着かなかったけれど、それでも、嬉しかった。

 

 

 

自死についての話をしている。

 

私の知らない人が死のうとしていた、らしい。知り合いが警察に通報しようと頑張っているのを見ていて、苦い気持ちになってしまった。その知り合いを糾弾したいわけじゃない。正しいことをしたんだろうと思う。でも、その正しさって、生きることが正しいという価値観のもとでしか機能しない正しさだよな、とも思う。死のうとしたら、通報されちゃうのか、というのが、私にはめちゃくちゃショックだった。そうまでして生かされなきゃいけないもんなのか。きっついなあ。死なせてあげなよ、と思った。知らない人だから冷淡になれるわけじゃない。だって、死ぬほどに苦しいなら、もうじゅうぶんでしょう。生きることがその苦しみを長引かせることだと、その苦しみを味わえと強要することだと、私はどうしても思ってしまう。その苦しみを消してあげられないなら、あるいは持続を正当化できるだけのものをその人に渡してあげられないなら、生きてほしいなんて言うのはずるい。ずるいっていうか、残酷だし無責任。かつての私もそうだったけど、連れも、大事な友人たちもみんなずっと終わらせたがっている。ほんとうは生きたかったのかもしれない、なんて生きることができてしまう側の身勝手な推測だし、死のうとしてる時点でそんなわけないでしょと思う。苦しみながら、それでも私と遊んでくれることも、一緒にいてくれることも、それだけで奇跡みたいな話で、もうそれ以上何を望めっていうんだ。いつか海に行こう、また一緒にコンサートに行こう、遠いところに旅をしに行こう、そうやって交わした約束がその人たちを引き止める理由のひとつになればいい、そう願うくらいの傲慢さはある。だけどもしそれが叶わなくて、その人たちが終わらせようとしたら、なんて想像はしたくないけど、でももしそうなったとして、私は引き止めないだろうと思う。そっか、そうだよね、と思う。私にその人たちの苦しみをまるっきり理解することはできなくとも、苦しんでいたことを知っているから。大往生って言われるような年齢まで耐えなくても、自分で終わらせたとしても、辛気臭い葬式にしたくないよねって話をしたことがある。その人の好きな音楽を爆音でかけて、ミラーボールとかつけちゃって、その人の好きな色のサイリウム振って見送るんだ。それでいい。生きていてほしいと思ってるし、そう言うけど、そのために苦しみに耐えないでほしい。あなたの生きる理由にはなりたい、なれたらいいけど、生への足枷になりたくない。死なないほうがいいなんて、言えるわけがない。いいわけないんだから。

怒っているとか特定の誰かを責めたり糾弾したりしたいわけじゃなくて、ほんとうにほんとうにわからないんだけど、「病気のせいでほんとうは死にたくないのに死にたいと思っているだけかも」って、当人にとって死にたいが真実である以上、他者が「ほんとうは」を勝手に読み取ってあげることになんの意味があるの?それが当人の感じていることの否定じゃなかったら何なの?病気のせいであろうがなかろうが、経緯とか過程とかどうだってよくて、今この瞬間その人の中に存在する苦しみは本物じゃん。「ほんとうは生きたいはず」って、死にたい気持ちがわからないから言えることなんじゃないの。生きたいと思うことが「あたりまえ」で「正常」のはずだって固定観念がそこにあるじゃん、マジョリティの論理じゃんそれはさ。生きてることってそんなに大事?どうして生きていてほしいの?他者の「生きてほしい」は、その人の「生きたくない」よりも大事で優先されるべきものだって、つまりそういう理屈になっちゃうじゃん。それが適用され続けるのって苦しすぎる。しばりつけないでくれ。いつだって死なせてくれよ。

一命をとりとめたらしいその人のつぶやきも目に入った。そこに「お願いだから生きていてほしい」とリプライがついていて、心底ぞっとしてしまった。どうしてあなたのお願いに答えてまで生きなきゃいけないんでしょうか。「死ななくてよかった」と思うのはいつだって死にたくない側の人で、死に損ねたら人生リセットこれから何もかもうまくいって苦しまずにすみます!なんてあるわけないから、生きながらえてしまった人はまた苦しみに耐える日々がはじまる。それがどうして正しいことだと言えるのかわからない。あのとき死ねていれば、って思いながら生きることになるかもしれない、強要された未来に、生きていてほしいなんて身勝手なことを言った人はどうこたえるつもりなんだろう。どうせ救えもしないくせに。ていうか、救えなかったんじゃん、ここまで。とっくに救えなかったから今そうなっているのに、今になって生きていてほしいとか、笑えちゃうなあ。

「とりあえず止めるときに『私はあなたがいないと悲しい』と伝えるのは、倒れている人にAEDを使うようなもので、実は有効なテクニック、ただの技術であり応急処置」らしい。「とりあえず」で死なせてもらえないんだ、切実な死にたさはそんな簡単に軽んじられるんだ、って思った。「有効なテクニック」という言葉も嫌だなと思った。統計的に処理された「正解」でその人を救えるんだと思っているとしたら、それはやっぱりその人を見ていないと思うから。「内心は置いておいて、とにかく事態を好転させるための歯車に徹するということが大事」という言葉があとに続いていた。その好転って、誰にとって?生きながらえることが好転なわけないだろ。なんとしてでも生かそうとするその執念のほうが怖い、私には。そうまでして生きることに、なんの意味があるんだろう?死ねなかったその人の苦しみを軽減できる保証もないのに、どうしてそんな残酷なことができるんだろう?

友人は希死念慮に襲われているとき、「希死念慮のゆるキャラ・きっしーになってしまう」と言う。私はそのユーモアセンスが好き。きっしーが取り憑いた友人ごと、愛している。死にたくなくても、死にたくても、死んじゃっても、愛している。それだけだ。他者の生き死にまで口を出したくないし出してほしくない。大事な人であればあるほど。

何度も言うけど、命を救おうと動いていた知り合いを責めたいわけじゃない。命を救うことがその人のためになると信じてやまない人はたくさんいる。その善意を疑うつもりもない。でも、その善意の根拠にある「生きていたほうがいい」という社会の要請が、私には受け入れられない。