2023/11/11

午前中は、年に数回ある、会社をあげての大々的な研修イベント。休日とも会って任意参加だが(参加すれば出勤扱い)、毎回すさまじい数の社員が参加する。学ぶことに前向きな人が多いのは、この会社の気に入っている部分のひとつ。目玉企画として、著名な学者の講演があった。もともと良い印象を持っていなかった人だったし、話を聴いてみてもやはりいけすかないと感じたけど(きっと自分以外の人間はみんな頭が悪く見えているのだろうなあ、という感じ)、それはそれとしてけっこう興味深くて楽しかった。大学の講義みたいで。

午後はなんだかぼーっとしているうちに終わった。久しぶりにSNSにログインして、見ていなかった分の友人たちの投稿をさかのぼったりして、その合間につらつらと過去の日記に書き足していた。日記に書き足すのって、あとからいくらでも作り変えられてしまうからちょっとずるいような気もするけど、残らないことが嫌でたまらないから仕方がない。書いている瞬間の自分ではなく、過去の、その日を過ごした自分にいかに誠実でいられるかにかかっている。

でも、何を書いても誰かを傷つける気がして怯えている。優しくなりたいのに、その方法がわからない。優しいふりをすることは難しくないけど、その優しさは私の心の動きから出たものじゃない。社会的に学習された、技術としての優しさだ。対外的にはそれでもいい。優しいふりによって誰かを傷つけることを回避できるのなら、その振る舞いには絶対に意味があるからだ。でも、それは私が優しいことを意味しない。私は、私が優しくなりたいのに。

自分の言葉が誰かを傷つけるかもしれないとわかっていて、それでもインターネットに垂れ流すのをやめられないのって、ゆるされたいからだ。あなたは悪くないって言ってほしいから。でも、ゆるされたくて言葉を重ねるべきじゃないし、自分の言葉が誰かに届く価値のあるものだって思っちゃいけないんだよな、ってどんどん沈む。

書いても書いても納得がいかなくて、何度も消したり直したりしているうちに気が滅入ってきた。夕方になって、さすがに見切りをつけて本を読みにひいきのカフェに行ったものの、なんだか眠くて、あんまり読み進められなかった。持っていった本のかわりに、席の近くに置いてあった小林かいちという大正時代の木版絵師の画集と、萩原朔太郎の『猫町』という短編を読んだ。小林かいちは初めて知った名前だったが、アール・デコ調のデザインが好みど真ん中で、ページをめくるたびに嘆息した。キリスト教をモチーフにしたデザインはことさらに美しいものが多くて印象に残っている。文章がまったく頭に入ってこないからと、説明文や専門家の寄稿はすっ飛ばして絵だけを観ていたせいで、その人については何もわからなかったけど、クリスチャンだったりしたのだろうか。いつだか図書館でたまたま目があって手に取ったビアズリーの画集を思い出した。あれも観ていてすごく幸せな時間だったなあ。『猫町』のほうは、私が誰にも話したことのない方向感覚について書かれていた。

たとえば諸君は、夜おそく家に帰る汽車に乗ってる。始め停車場を出発した時、汽車はレールを真直に、東から西へ向って走っている。だがしばらくする中に、諸君はうたた寝の夢から醒める。そして汽車の進行する方角が、いつのまにか反対になり、西から東へと、逆に走ってることに気が付いてくる。諸君の理性は、決してそんなはずがないと思う。しかも知覚上の事実として、汽車はたしかに反対に、諸君の目的地から遠ざかって行く。そうした時、試みに窓から外を眺めて見給え。いつも見慣れた途中の駅や風景やが、すっかり珍しく変ってしまって、記憶の一片さえも浮ばないほど、全く別のちがった世界に見えるだろう。だが最後に到着し、いつものプラットホームに降りた時、始めて諸君は夢から醒め、現実の正しい方位を認識する。そして一旦それが解れば、始めに見た異常の景色や事物やは、何でもない平常通りの、見慣れた詰らない物に変ってしまう。

萩原朔太郎 猫町 散文詩風な小説

うわ、これ、知ってる!と思った。同じような感覚を持って、それを書き残そうとした人がいたことにぎょっとした。今はもう生きていない人に心を覗かれるのって変な感じ。

カフェの帰りに買い物をするつもりが、寒さに耐えきれずまっすぐ家に戻った。夕食も作る気になれず、連れに泣きついてデリバリーでピザを頼んだ。ピザを食べながら『キル・ビル』を観る。暴力、暴力、暴力。タランティーノ、やりたいこと全部やったんだろうな、という感じの痛快さがあった。映画としては『パルプ・フィクション』のほうが好きだったけど。ピザを一気に食べすぎて、後半は腹痛に苛まれていた。