2023/12/26

昼食は、すこしだけ残っていたシチューのルウを米にのせて食べた。それと、タンを焼いたあとのフライパンに残った牛脂で菜の花を炒めて塩胡椒を振ったソテー。かなりおいしかった。

午後は出社。数年来先延ばしにしていた面倒な事務仕事をひとつ片付ける。作り始めた資料が思いのほか重いものになって、リーダーと午後8時前まで相談しながら作っていた。周囲が口頭でふわふわと話していることを目に見える形に落として、複雑に絡み合った問題の要素を解きほぐして、解決の緒はどこにあるのかを考えるのは楽しい。形は違うけど、文章を書くときの気持ちよさに通じるところがあるのかもしれない。だから資料を作ることは苦にならないけれど、きっとこれもまたすぐに見向きもされなくなるのだろうというのは予見できて、なんだかなあとは思う。

電車の中では斎藤幸平『ゼロからの資本論』と、シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ』を読んでいた。前者は、今読んだ分のかぎりでは、私が今までフェミニズムに接する中で必然的に触れてきた資本主義批判から煮詰めてきた考えと近しい内容だった。目新しい内容ではないけれど、資本主義がいかにクソなシステムかということをあらためて思い出せたことと、資本主義を内面化した自分に罪悪感を持ちすぎなくてもいいのかもしれないと思わされたのはありがたい。迎合でも肯定でもなく、私もまた構造の被害者にすぎないのだから。賃上げよりも労働日の短縮を求めよ、というマルクスの言葉にはなるほどと思った。有給はぜんぶ使うところからだ。

高校時代、世界史選択をしていた友人たちが、倫理の教員を「あの人はマルクス主義者だ」と呼んでいたことを思い出す。当時マルクス主義というものが何を指すのか知らず、友人たちの会話についていけないことに劣等感をおぼえたので、変に記憶の断片として残っている会話だ。その教員にかぎらず、ごりごりの左派の教員たちに囲まれて育って、当時は何も知らなかったはずの私が、十数年後の今、明確に左派思想を持っていること、必然だろうけども愉快だなと思う(その友人たちも私と同様である)。いずれ『資本論』を読まねばなあと思い続けていて、その導入書として手っ取り早く読もうと思った本だったが、やはり還るべきはマルクス主義なのかもしれないという思いを強めている。

夕食はほうれん草がしなびかけていたのと、シチューにつかった生クリームが残っていたので、ほうれん草と卵と鶏肉でグラタンにした。あとは大家さんにいただいた大根とその葉っぱと油揚げの味噌汁と、大根の葉っぱを胡麻油で炒めてふりかけにしたもの。重めの食事が続いていたので、出汁と野菜の素朴な味が身にしみて美味しかった。

夕飯を食べながら、連れと今年のベスト映画について話していた。私は間違いなくムビナナが首座。これは年間というより、この先死ぬまでで一番だと思う。あとは海外出張の飛行機で観たマーティン・マクドナー監督の『イニシェリン島の精霊』がすぐ浮かぶのだが、もうひとつを絞るとなるとけっこう悩んだ。

のんびり食べているうちに日付が変わって誕生日になった。あいかわらず連れの選ぶ贈り物は私をよくわかっていてにくい。どんな10年でしたか?と聞かれて思い返してみて、まあ総じて悪くなかったと思う。10年ってけっこういろいろあるものだなあ。はたちの私には想像もできなかったような場所にいる。