2024/2/6

昼:餡パン、クリームチーズパン、フライドチキンの残り
夜:葱塩レモンソースの鶏ももソテー、レタスと卵の炒めもの、豚汁の残り

 仕事で鬱々としている。ずっと何かが噛み合っていない、うまくいっていない感覚があるのに、誰もその根本を考えようとせずに対症療法に終始しているのが気持ち悪い。かくいう私も突っ込んで考えることができていない。ただ毎日釈然としない感覚が積み重なって、澱が体の奥に淀んで濁っていく。ふとすると「なんかなあ」とか「もうやだよう」とかが口からこぼれていく。
 経験上、仕事でそれなりに充実感が得られるようになれば、こういう塞ぎ込み方はしなくてすむと知っている。資本主義批判めいたものを口にしたところで、私の「高尚さ」は、目先の達成感に簡単に揺らいでしまうような頼りのないものだ。
 昇進条件を満たすにはすこし経歴が足りていない。上司もそれを承知しながら、それでも今年中に上がろうよ(上げてあげるよ)と発破をかけられている状況に、若手の所属長を私にしたいのだろうなという思惑も見える。事実、現職の同僚より私のほうが適任だとも思う。ただ、管理職になるということは、人を生産性で判断する立場になることだ。人事権を持つ、すなわち権力を行使する側になるから労働組合に入れないのである。そのことが重い。
 耽美主義的なところがある(その美しさには、倫理的な正しさを追い求めることも含まれる)。そして美しいものに焦がれれば焦がれるほど、自分がそこから程遠い存在であることを思い知るから、望まない道ばかり選びたがっているようなところがある。所詮おまえはその程度だよって言い訳したいから。
 わかっていたつもりだったけれど、思っていた以上に資本主義のど真ん中の会社だったと、時を重ねるにつれて理解させられる。自分の倫理に反する場所で、いつまで働くのか、ともう何度も何度も何度も、嫌になるほど繰り返し考えてきた。それでも行動に移せずにいるのは、ここじゃないどこかで生きられる自分のことを想像できないからだ。けっきょく、小学生の頃から何も変わっていないのだとつくづく思う。安穏と甘やかされて、お膳立てされて、下駄を履かされて生きてきて、自分の足で立って歩く方法を知らない。就職活動の時期に体調が絶不調だったとはいえ、今の会社も親のすすめで勤めているのだ。30年生きたところで、所詮、親のレールから外れたことがない。
 留学も行けなかった、大学院を卒業できなかった、教員になれなかった。敷かれたレールの中で、選べたはずの分岐でさえそうなのだ。自分には、やりたいことなんてどうせ何ひとつ実現する力がないんだから、何をやりたいかなんて考えるだけ仕方がない。仕事をやめてみた先に何があるだろうと考えてみたところで、そういう無力感に耐えられなくてすぐやめてしまう。もう一度大学に行きたいと考えたこともあるけれど、お金のことを考えるとどう実現させればいいのかわからない。社会人(この言葉嫌い)向けの奨学金制度があるのも知っているが、ほんとうに自分には無理だと確信するのが怖いから、調べる勇気もないのである。
 年明けの高校の同窓会で卒業ぶりに会った同級生は、小児科の医師をやっていた。「忙しいけど、自分の仕事の価値を疑わなくていいから良いよ」と話していたのが忘れられずにいる。仕事の価値。私は今の仕事に価値を見いだせなくなっている。
 失効してくれたら諦めもついたのに、制度改正のせいでうっかり有効のままになっている教員免許のことが頭をちらついている。