2024/2/12

昼:スープカレー → ビアバー
夜:筍とベーコンとにんにくの卵炒め、昨日の残り物

 親友と半年ぶりに遊んだ。昼に待ち合わせて食事をして、だらだらと飲みながら話しているうちに6時間が経っていた。2軒目に入ったのは、半年前に会ったときと同じビアバーだ。「革命同志」という名前のビールを頼んだら、好きそうだと笑われた。そういう親友が飲んでいたのは「週休六日」という名前である。つまみに頼んだゴーヤの佃煮がとんでもなく美味しくて、店員に勧められたスタウトとの相性も抜群だった。
 お互い子孫を残す気のない私たちは、よくやるよなあと文字通りの他人事で同世代の結婚や出産の話をする。こんな美味いもんが飲めないなんて、それだけで子どもを産まない理由になると軽口を叩いたら(子どもを持たない理由なんて星の数ほどあるが、これはあながち冗談でもない)、おまえは案外ちゃんと酒クズだよなとからかわれた。嗜んでるだけだと言い返すと、それなら文化的酒クズだという。なんとなく響きが気に入ってしまった。
 今年はもうすこし会おうぜと次の約束をして、日が暮れた頃に別れた。

 そのあとは連れの勤務先まで足を伸ばして、仕事終わりの連れと落ち合って、映画館で『ゴールデンカムイ』を観た。
 原作尊重という意味では、すごく丁寧に作られていると思った。しっかりおもしろかったし、実写化の難しさを難なくクリアした、見ごたえのあるものになっていた。それだけに、あらためて差別描写のぬるさへの物足りなさ(杉元の「慣れる必要がどこにある」はちゃんと入ってたけど、ほんとうにそれだけ。ただこれは映画の作りというよりも原作の問題だ)と、やはりアイヌルーツの役者起用をもっと積極的にしてほしかったという思いが増す。本来文字を持たないアイヌ語にむりやり日本語を当てはめて文字で読んでいた言葉が、音のある、生きた言葉としてそこに存在していることに、ふるえるほど胸が高鳴った。だからこそ、だからこそ和人がその言葉を奪うべきではなかっただろうと、どうしても思う(ルーツを持っているからといって、その言語を使いこなせるわけではないというのは留保しつつ)。
 差別があった/あるからこそ、ルーツを公表せずにいる役者もいるだろうし、非当事者がルーツを声高に求めることも諸刃なのではないかという怖さはたしかにあるが、社会において、マイノリティが排除されないことは、作品のクオリティやおもしろさよりも優先されるべきだ。物語に世界を変える力があると信じているからこそ、多くの人に愛された作品であるからこそ、なおのこと強く思う。
 ただ、映画が役者だけで作られるわけではないことも事実で、美術などスタッフサイドにルーツのある人々がたくさん関わっているというのは、別問題としてもっと光の当たるべきところだと思う。
 静かなタイトルコールは美しくて目に焼き付いているし、俳優陣の演技も見事で(特に土方役の舘ひろし、鶴見中尉役の玉木宏はすごかった)、美術も緻密だった。アシㇼパさんが杉元に手をのばすシーンがいくつかあったけれど、一貫して杉元の手は血で濡れていて、アシㇼパさんの手は汚れていないという対比が印象的だった。映像作品としてはかなり好きだっただけに、惜しいなあ、という気持ちが残る。