2024/3/4

前の日までなんともなかったのに、起きたら微熱と吐き気があって、お腹を下していた。腹痛はないからいいようなものの、10分起きくらいにトイレに駆け込む羽目になる。とても仕事にならないので、休暇の連絡を入れた。安静にしていれば午後には落ち着くだろうとたかをくくっていたが、水を飲んでも吐き戻してしまうような状況で、脱水症状が怖くて午後一番に病院に行った。評判のよかった近所の内科の医師は、診察室に入ると挨拶をしてくれて、目を見て話もしてくれるんだけど、どこか商業的な丁寧さというか、なんとなくいけすかない印象で不思議だった。いや、別にいいんだけど。胃腸炎ですね、とものの数分であっさり診断。土曜日に食べた貝が悪かったのだろうか。同じものを食べていた友人は無事だったようなので、真偽は分からずじまいだけど。先週はけっこう忙しかったし、連れとの諍いもあったので、ストレスもあったのかもしれない、と内心で納得する。吐き気止めと整腸剤を処方してもらった。薬局で処方の説明をしてもらっている間、立っていたらどんどん気持ち悪くなってしまって、薬剤師さんに無愛想な態度をとってしまったのが心残りなんだけど、とにかくその時はしんどくて早く終わって欲しい一心だった。そのあと家までの徒歩数分の間は、ここで行き倒れるのかもしれないと思うくらいに苦しかった。どうやって家にたどり着いたのかあんまりよく覚えていない。

吐き気止めを飲んでからはだいぶ落ち着いて、そのあとはベッドとトイレをひたすら往復して過ごした。熱もなく頭もすっきりしているし、腹痛もないしで、森山至貴と能町みね子の対談『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ  性と身体を巡るクィアな対話』を読んでいた。集中を要するものだと、頻繁に来る便意に邪魔をされていただろうから、さくさく読める対談本はちょうどよかったかもしれない。「クィア」というのがもともと侮蔑語で、それを当事者たちが積極的に自らの名乗りとして引き受けていったというのは、知識としてはあったけれど、思っていたよりもずっと侮蔑のニュアンスが強いものだったのには驚いた。全体としては、これといって目新しい考えがあるわけではなく、これまで散々考えてきたことの焼き直し・再確認といえばそうだったけれど、だからこそ自分もその対談に参加してるみたいで楽しかったし、こういう会話を友だちとしてみたいと思った。というか、それを期待して週末の友人たちとの旅行を楽しみにしていたところもある(友人たちがそれに乗り気になってくれるかはわからないけど、提案をしてみようと思っていた)のだけど、泣く泣く友人に欠席の連絡を入れた……。名乗りを引き受けること、引き受けないこと、幸福でいなければならないという強制への反抗について、クィアであることとはどういうことか。友人の中にはカテゴライズされることでそのカテゴリーのイメージを付与されるのが嫌だからと名乗りを拒否する人もいるのだけど、そういうままならなさも丁寧に紐解いてあって、その人のことを考えながら読んでいた。自分の中にクィア的な成分が存在することは確認できたものの、じゃあ私はクィアであると言えるかと考えると、ちょっと違うなという気もする。私は自分で考えられるところはもう考え尽くして行き詰まっている感じもあって、その先にある、誰かと話す、というところに興味がある時期なんだなとあらためて気づいた本だった。

夜になって熱が上がってきた。そのせいか体が痛くて、気を紛らわせるために映画『Barbie』を観ていたが、途中で眠くなって観るのを止めた。連れは仕事を早退して帰ってきてくれて、彼自身調子が良いわけではないのに、いろいろと介抱してくれてありがたかった。こういう感染性の病気になってしまうとベッドを一緒に使う生活はちょっと困る。