2024/3/8

国際女性デー。会社でもいろいろそれにちなんだ企画をやっている。女性の活躍推進に関してはきっちり取り組んでいる会社だと思うし、全体的に人権に対する考え方を評価しているから丸7年同じところにいてもいいと思えている。全世界の社員が、毎年必ず受けさせられる年次教育のストーリー仕立ての動画やイラストで、ありとあらゆる人種とジェンダーの人間を登場させ、不当な暴力と差別はゆるさないと繰り返し明言する会社だから信頼できた。でもこの会社は、イスラエルを支援している。それだけで、すべてが空虚だ。

社内ネットワークをあちこち覗いていると、ムスリムコミュニティではパレスチナ支援の空気が明確にあるものの、日本語圏も含め、それ以外ではまったく見当たらない。米国本社の社長に直接物を申せるスレッドで、イスラエルの支持を撤回し虐殺に反対しろと言っている他国の社員がいることには一瞬だけ勇気づけられたものの、それに対する夥しいネガティブなリアクションにすっかり落ち込んでしまった。どうしてビジネスに関係のない話題を持ち込むんだ、というコメントさえついていた。とはいえ、個々の社員に意見(として認めるものでは本来断じてないのだが……虐殺をやめろということがなぜ共有できないのか)を異にする人がいるのはまだ想定できるとしても、今まで不当な差別と暴力に明確に怒りの姿勢を表明してきた会社であればこそ、これを虐殺と認識し、それを否定してほしかった。これはもうアメリカという国の機能不全だと思うけれど、ほかでこんなまっとうな会社運営をできるところでさえ、ここに関しては間違えてしまうのか……という徒労感がひどい。

アメリカがこうも後に引けなくなっているのは、9.11の影響が大きいのだろうという想像はついている。まだ物心もおぼつかない頃だったけれど、当時アメリカにいて、周りの大人の動揺と狼狽から、幼心に大変なことが起きたんだと思った記憶がある。人の命を奪った非人道的な出来事として語られるし、それは事実ではあるけれど、それ以上に、常に侵略者・絶対的な強者の立場であり続けてきた自分の立場が揺らがされることを、アメリカ自身が許容できなかったのだろう。以来、「テロリスト」という言葉は憎悪の対象となり、その実体であるところの人間を命として扱うことを放棄した。テロリストを報復の対象だと定義した先に、今の殺戮も正当化されているのだと思う。報復は答えじゃない。誰も殺すな。

数日前、社内のチャットツールのステータスに西瓜のアイコンを設定している人を見かけた。どうして思いつかなかったのだろうと思うが、せめて私もこれくらいはやろうと思って真似てみた。否、思いつかなかったのではなく、頭にはあったが実行に移す勇気がなかったというのが正しい。その人は私の知らない人だから、実際のところどういう意図かを知る由もないが、背中を押された格好だ。今日になって、久しぶりにチャットを送った同僚に、用件の話が済んだあと、なんで西瓜なの?と尋ねられた。会社がイスラエルを支援しているのが仕事をやめることを考えるくらい嫌なので、せめてもの反抗であると答えたら、どんどん反抗していこう!と返事が来た。嬉しくてちょっと泣きそうになった。仕事で政治の話をするのはタブーだという空気を、内心でくだらないと思っていたところで、具体的な行動を伴う形で否定するのは難しい。所詮、私は権威に対して従順な性格だからだ。それでも、小さな反抗が無意味ではないと思えたことが嬉しかった。

夜は連れと買い物をして、近所のケバブ屋でテイクアウト。それをつまみながら別のものを作るはずだったのが、結局それだけでお腹いっぱいになってしまった。『葬送のフリーレン』の続きを5話分観て、最新話に追いついた。ちょっとところどころ眠気に負けてしまった。すこしずつ戦闘や冒険のシーンが増えて「いわゆるファンタジーもの」らしくなりつつある。ヒンメルたちの面影を追いながら続ける旅の日常の情景を描く、ロードムービー的な雰囲気に惹かれた身としては複雑な思いもあるのだが、フリーレンがフェルンやシュタルクと過ごす日々に、ヒンメルたちとの記憶を重ねていることが愛おしい。生きることとは思い出されること、と追想のなかでヒンメルは笑う。私が公開の場所で文章を書くのをやめられずにいるのも、けっきょくのところ、誰かに思い出されたいからかもしれない。