2024/3/7

先日同僚を下に見たがる自分の陰険さを恥じたところだったのだが、前の晩送ったメッセージに「あざっす!」と返事が来ているのを見てかちんと来た。単純にこの人のことを嫌いなのかもしれない、と思い当たる。だからといって仮に他者を下に見たがる心の動きが省みるべきものであることは変わらないのだが、なんとなく軽んじられているように感じるのはこれが初めてのことではない。でも、こういう自分の中でおきる反発が、けっきょく私のほうが仕事ができるから(あるいは職位が上だから)敬えというきわめて傲慢な論理に基づいているのではないか?という気もやっぱりするから、シンプルなムカつきをどこまで正当なものとして自分の中で受け入れていいのかわからない。いや、でもそこはあざっすじゃねえだろ、とは思う。私たちは友人ではない。表情や声音が伝わる対面のコミュニケーションならまだしも、テキストベースのときはそこは特に意識するところなんじゃないかと思うのは、私が細かすぎるだけなんだろうか。自分が発する言葉が誰かを傷つけないかと考慮する癖は(必ずしも成功しているとはもちろん言えないのだろうが)、仕事においては「この言葉選びがどういう効果をもたらすか」を徹底して考えるという方向に発揮されていて、すくなくとも仕事上のコミュニケーションにおいて私は間違って受け取られたことがほとんどないし、それは私がそう意図したものだからなんだけど、なんかそういう意図ってみなさん、けっこうしないんですね……?ってよく思う(これはほんとうに他者を馬鹿にする意図でしかない、傲慢で最悪な発言)。かちんと来た勢いにまかせてちくちく言葉で返信しちゃって、そのことに自分で落ち込んでいて馬鹿だなと思う。善く生きたいんじゃなかったのかよ。悪意に身を明け渡したくない!悪意を自分から引きはがそうと思うとき、大きな金色の犬が毛皮から水滴を弾き飛ばそうとぷるぷるしている様をいつも思い浮かべる。愛されることを疑わず、愛することをためらわない、大きな金色の犬のような存在になれたら、と思う。

昼は会議が立て込んでいて、手抜きで作った具のないにゅう麺。白だしを薄めただけのかけ汁は今ひとつだった。夜は昨日の残りのコールスローと茹で鶏のほかに、鶏の茹で汁をつかって椎茸とえのきと豆腐のスープを作った。出汁がうますぎる。

食後はひさしぶりに『葬送のフリーレン』を観た。単純に忙しかったのもあるけれど、2クールに入って、OPとEDが変わってしまってから観る頻度が落ちている。前のほうが好きだった……。

私は前の晩寝付きが悪かったし、連れは翌朝早くの出勤なので、早く寝ようと日付が変わる前に布団に入ったのに、けっきょくそこから1時間ほど他愛のない話に興じてしまった。宝くじの当選者が名乗り出ていないらしい、という話から、7億円あったらどうするかという空想をしたりとか。でも、そうやって話しているうちに眠くなって眠りに落ちるのって心地が良い。一緒に暮らしてよかったと思う瞬間のひとつ。