2024/3/9

11時前に起きて、洗濯機をまわし、掃除機をかける。連れは正午前に起き出してきて、何やら後ろめたそうな顔で(私が家のことをしているのに自分が寝ていたのが疚しいらしい)昼食を作ってくれた。生のバジルで作るジェノベーゼはすごくいい香りがする。友人たちからは、朝から楽しそうな旅行の写真がたくさん送られてきていた。送って欲しいと頼んだのはほかでもない私で、愛しい人たちが楽しんでいる様子には嬉しくなるものの、私だってほんとうならそこにいるはずだったのに!という気持ちが湧くのも否めないので、せめて意義ある一日にしてやろうではないかと奮起して、午後も寝具を替えて布団を干し、風呂場と洗面所と台所とトイレを掃除したりしているうちに夕方になっていた。だいぶきれいになって機嫌がいい。

昨日、家事分担に関する認識が女性と男性で異なるという新聞記事を見かけた。事実、私と連れも、割合でいえば私のほうが圧倒的に多いだろう。料理や洗濯や皿洗いみたいなわかりやすいものは引き受けてくれるが、いわゆる名もなき家事、というやつである。それは、居住空間に対して求める清潔さのレベルが異なることに起因するものが多い。私は前の晩に飲んだビールの空き缶や鼻をかんだあとの丸めたティッシュがテーブルに残っているのが嫌だし、肉や魚の入っていたプラスチックトレーが洗ったあと流しに置きっぱなしになっているのも、流しの端っこに野菜の切り屑が残っているのも、コンロの周囲に油が飛んだままになっているのも嫌。そういう差が性別役割規範に基づくものなのか、個人差なのかはさておき(とはいえ、男女で同居している人と話すと共感されることが多いので、やはり傾向としては社会的なものだろと思う)、同居当初は、気になる方がやればいいやと鷹揚に構えていたのだが、半年も経つと、なんだかなあ……という気持ちになっている。折り合いをつけるには、私が要求レベルを下げるか、連れが私の要求レベルに上がってくるかしかないのだが、部屋が散らかってくると気分が落ち込みやすくなるので、前者は選びたくない。そろそろちゃんと会話したほうが良さそうだなあという気がしつつある。同居を始めた頃って毎日楽しくて楽しくて、この先不満が出てくることなんかありっこないとか思っていたけど、生活していればそれなりにいろいろ見えてくるものである。

すこしずつ、冬眠していた欲望が自分の中で目を覚ましつつあるのを感じる。実際に行動に移せるかはともかく、出かけたいな、と考えることが増えた。思い返すと、この冬は、いつもにましてほんとうに活力がなかったように思う。毎年冬は鬼門なのだが、今年は例年ほど気持ちの落ち込みは深くなかっただけに、体力的な衰えを一層自覚する。家で過ごすのがすっかり当たり前になってしまって、休みの日に植物園に行ったりカフェに行ったりしていたのが自分のことではないように思えるというか、今の自分に同じことができるという想像ができなくなってしまった。

今月最後の週末にソウルで開催されるアンコンに行けることになったので、好きだった女の子とやりとりをしながらホテルと航空券の手配をしていた。そうそう、こういう身軽さだよ、と思う。今の私には、自分がどこにでも行ける、という確信が失われていて、それは確実に私を不自由にしている。今、ここに自らをとどめおこうとする窮屈さ。それにしても、航空券もホテルも、けっこう出費としては痛い。ソウルはもっと気軽に行けた場所だったと思うのだけど。

この1年ほど、まったく出費が管理できなくなっている。冷蔵庫とかベッドみたいな、連れとの同居にあたって新調したものとか、直近だとメキシコの航空券もあるし、こうしてソウルに行く機会も増えてきたりと、大きな出費が増えているのに、食費も増えているし、ほかの趣味ごとの支出速度がそこまで落ちていないので、ちょっとやばそうだなという漠然とした不安はあるのだが、腰を入れて精査できていない。なんだかんだ毎月微妙に赤字で(しかも現金の支出がろくに記録できていない状態でこれである)、それをボーナスで補填しているような状態なので、そろそろ立て直さないとならない。