愛に言葉は不要というけど

 

彼の声に落ちたのがもうひと月以上前になろうか、それから少しずつ彼の人となりについて知っていることは増えつつある。知れば知るほどに好きになっていくし、きっとこれからもっと好きになるのだろう。だけど、今後どれだけ彼のことを知ろうと、歌っているジノが一等好きだというのは変わらないような気がする。

K-POPに出会ってから随分とたくさんの人を好きになってきたけれど、ボーカルラインの人が推しになったのはジノが初めてだ。なんでこんなに彼に惹かれたんだろうか、と考えていたら、頭の中が段々と込み入ってきたので、とりあえず文字にしてみる。

 

先に断っておくと、わかったような口を利いているけれど、これは理解でも共感でも寄り添いでもない。他者を理解することなんてただでさえ不可能だし、他者を視る私の視線には観察者としての恣意性が大いに干渉している。ましてやアイドルとファンという関係なら尚更だろう。私が彼らを(ともすれば都合よく)そのように解釈しているにすぎないのだ。

 

思うに、歌はひとつの表現形態であるからして、歌い手の '作品' だ。私がジノペンになったのは、彼の作品に魅せられてしまったから。

裏を返せば、私はアイドルとしての彼のペンになったわけではないのかもしれない、と思う時がある。もちろん、今ではペンタゴンというグループがまるごと大好きだし、そのメインボーカルを務めるジノも、長男としてのジノも大好きだけど、それは後付け。

もともと優しげな顔立ちをしていることもあって、険しい表情が似合わない人だなと思う。たとえば "Can you feel it" だとか "Like This" のブリッジパートとかでそういう顔をする時があるけれどさ。でも単純に似合わないというより、ああいう時のジノは「こういう表情をしよう!」と思って顔を作っているみたいに見えて、ちょっぴり無理やり感があるような気がする(小声)それはそれで可愛くて好きなんだけど。

アイドルというのはパフォーマンスありきだから、そういう作り込みが必要なのはわかる。だけど、やっぱり私は、そういう時の彼よりも伸び伸びと歌う彼が好きだ。

飾らずに歌う時の彼は、それがどんな歌であれ、いつでもジノだ。むしろ、歌う時こそがチョ・ジノという人間として生きられる瞬間なんじゃないかなと思う。存在の確度が揺らがないというか、ジノという人間の輪郭が一番はっきりしているというか。

彼の唇から紡がれる詞が悲しいものだったとしても、それを聴いて私が悲しさを覚えることはない。なぜなら、彼の歌声からは、溢れんばかりの歌への愛を感じるから。彼が歌を、ひとつひとつの音を慈しんでいることは、目を閉じて歌うところを見ていればよくわかる。とても丁寧で繊細で、真摯だ。気持ちよさそうに歌うのが好き。

それから、その小柄な体に並ならぬ自信を纏った姿も好きだ。普段は優しさの塊みたいな彼が、マイクの前で一変するのが好き。歌っていないときには微塵も匂わせないのに、確かな実力に裏打ちされたボーカリストとしての矜持がそこにはある。フイくんとデュエットしてる時なんか、もう最高。

歌うために生まれてきた人って、彼のことを言うんじゃないかな。

だからこそ、というべきなのか、彼が歌うときに放つ輝きはとても鮮烈だけど、どこか儚さを覚えてしまう。意地悪な言い方をするならば、彼には歌しかないんじゃないか、と思う時があるのだ。彼にとって歌はきっと空気みたいな、人生において決して欠けてはいけない要素なんじゃないだろうか。8年という時間に代えてでも捨てられなかったものなんでしょう。そこに捧げられた覚悟の重さに、敬意すら越して畏怖を覚えずにはいられない。同時に、もしも歌を失ってしまったら、この人はどうなってしまうのだろう、と余計なことを考えてしまう。

そういう人と同じ世界に、同じ時間に生きていられること、その歌う姿を目の当たりにできることは、なんと幸せなことだろうか。彼が目の前のマイクを見据えて歌う時、眉根を寄せて音を紡ぐとき、目を閉じて渾身のエネルギーを絞り出すとき、何度見ても胸がぎゅうと締め付けられるように愛おしさで潰される。 

 

ここから先は、思いつきを書き殴っただけ。表現と表現者の話、自分では面白いと思って書いているのだけど、どれほど読む人に伝わるのかはわからない。

歌う、奏でる、書く、描く、踊る、撮る、録る、作曲する……表現の方法は数多あれど、およそ表現者という生き物の本質には、アーティストとストーリーテラーというふたつの面があるんじゃないか、みたいな感じのことを最近考えている。

そのふたつはあらゆる点で異なるのだけど、私が思うに、たとえばその違いのひとつは表現することへのモチベーションが内側(自己)にあるか、外側(他者)にあるかというところだ。表現することそれ自体を目的とするのがアーティストで、その作品は表現者の内面が結晶化したものであり、鑑賞者としての他者の関与は必要条件ではない。対するストーリーテラーの目的は、表現の内容を相手に伝えることで、鑑賞されて初めて作品として成立する。ソシュールが言うところのシニフィアンシニフィエの関係性に似ているようにも思えるが、この例えが適切である自信はない。

表現に用いる媒体は、おそらく元来どちらかと親和性が高い。たとえば言語はどちらかといえばストーリーテリングに向いていると思うし、写真や映像は尚更だ。対して、絵や踊り、音はアートとしての要素が強いような気がする。

とはいえ、ふたつのうちどちらかに100%偏ることはきっとなくて、個々の作品の色は、表現者本人の嗜好性だとか、様々な要因が絡まり合って絶妙なバランスの上で決まるものだと思っている。

その定義に則るならば、私自身は言語をつかう身ではあるけれど、だいぶアーティスト寄りだと思う。というのは、自分が書いたものの中身が相手に伝わったかどうかは実際のところあまり興味がなかったりするからだ。

承認欲求は強い方だから、もちろん私の文章を誰かに読んでほしいとは思うし、評価してもらえたら嬉しい。でも、書きたいという衝動は、それとは全く独立に存在していて、文章を完結させた時点で私の衝動は満たされてしまう。

だから、自分の中に書きたいものがある限り、それが誰の目にも触れなかったとて私は書くことを辞めないだろう。

そしてそれはジノも同じだろうと思う。無人島に流れ着いても、砂漠に迷い込んでも、彼は歌い続けるような気がする。

 

自分がそうだからかは知らないが、他者の作品を鑑賞する立場としても、ストーリー性のあるものよりもアーティスティックな作品を好む傾向がある。どちらが良い悪いではなく、あくまで嗜好の問題なのだが、ふたつの属性のまた別の違いに由来しているように思う。

ストーリーテラーの作品は精緻で、秩序だっていて理性的だ。内容を他者に伝達するのが目的である以上、表現がぐちゃぐちゃだったらそれは達成されないのだから、ある意味これは自然な話だろう。文章はわかりやすい例で、特にミステリーやSF、ファンタジーはこっちの要素がかなり強いと思う。

対する 'アート寄り' の作品とは、と問われたら、私は危うさの上に成り立つものであると答える。

 

私はしょっちゅう「美しい」という言葉を濫用するのだが、私が誰かに対してこの言葉を使うとき、その人たちには共通する特徴がある(推しのタイプに一貫性がないとよく言われるし自分でもそう思ってきたのだが、こうして考えてみると面白いものだ)。

危うい人、だ。どこかぎりぎりのラインに立っている人。ぷつりと糸が途切れたら、ふっと消えてしまいそうになるような、そういう儚さのある人(ジュンペンはこの気持ちを理解できる人が多いんじゃないかしら)。不安定、不完全、脆い。そういう感じ。

理性は強さだ。理路整然としているのも、それはそれでまたひとつの美しさなのだろう。無機的な美しさだ。

だけど、人間の美しさの真価は、神にはなれないからこそだ、と私は思っている。不完全性は唯一無二だし、それゆえに尊い。カオティックで、有機的な、体温のある美しさ。

そういう美しさのある人が好きだ。美化しすぎと嘲笑われるだろうか。

さっき自分をアーティスト寄りと言った身でこんな話をするのも、どうにも恥ずかしくはある。でも、自分も大概弱くて、強さに憧れている。弱い自分も強い自分もどっちも嫌いなんだけど、その間で揺れている自分は結構好きだったりする。

 

そのような文脈で私の思う 'アート' 作品とは、いわば理性の枠組みの隙間からこぼれ落ちる雫だ。理性で自らを律する強さのある人には生み出せない。その人の世界の解釈の方法を映し出すものであり、他者である限り永遠に共有できないもの。その人自身の欠片。 表現者としての存在が危ういほど、生み出されたものは眩しいように感じる。花火みたいなものだ。

 

そう考えてみると、音楽というのは難しいなと思う。作曲者、作詞者、歌い手の作品が同時に存在することで成り立つものだからだ。

とはいえ、歌うという表現行為は、単体ではストーリーテリングの要素が強いような気がする。そしてそれが、アート嗜好の私が今までボーカルライン推しにならなかったひとつの理由でもあるのかなと思う。

歌う人がどれだけ歌詞になぞらえて感情を込めようと、その没入が完璧であればあるほど、歌う本人の感情は霞んでしまうように感じる。私が見たいのは歌詞を台本にした演技ではなく彼ら個人の生の感情であって、現実の彼らから乖離した歌の中の世界には心が向かない(だから恋愛の曲には食指が動かないことが多い)。

ステージに登ってくるまでに彼らが越えてきたであろう苦しみを歌声の裏に見出して感嘆したり、ファンの前でパフォーマンスをする姿に愛おしさを覚えることはあれど、それは作品としての歌を楽しんでいることとはまた別で、単純に彼らのことを愛しているというだけだ。

はたまた、メロディが好きとか、声が好きとか、振り付けとか、歌詞の言い回しが好きなこともあるけれど、それらも結局はシニフィアン的要素に魅せられているに過ぎない。彼らを愛せばこそ特別感は増すけれど、究極このパフォーマンスをやっているのが彼らでなくとも、それなりに好きだっただろうと思う。

かといって、歌の中身に全く意識が向かないわけでは当然ない。たとえばセブチの曲の中だったら、"Shining Diamonds" や "Still Lonely" は格別に好きだ。あの歌詞には、等身大の少年たちの感覚がぶつけられている気がする。つまりは彼らにしか歌えない曲であり、彼らが歌うから意味のある曲になるのである。そこに魅力を感じている。

以前の記事にも再三登場するZicoの "Artist" や "ANTI" が好きなのも、あの曲が彼の感覚を具現化したものであると感じているからだ。BTSも鳥肌が立つような作品がたくさんある。SUGAがAgust D名義で出している "so far away" なんかは初めて聴いたとき、言葉が見つからなかった。ていうか、今これを書きながらBTSの曲の歌詞をいろいろ漁ってるんだけど、なんだこのグループ、凄すぎる。どんな世界を見てきたら、こんな言葉を生み出せるるのだろう。物語としても、芸術としても、宝石みたいだ。

また脱線したけれど、とにかく、ジノの歌は彼自身で、それだから好きだ。彼のなかの大事なものをぎゅうと圧縮して零れ落ちるダイアモンドみたいなのだ。私は、表現者としての彼をとても尊敬するし、美しいと思うし、愛おしいと思う。この人に出会えたことが、本当に幸せだ。

 

会社員として働くようになってやっと1ヶ月、なかなかにハードな日々が続いている。

昨日はすっかり月末だというのを忘れていた。ジノが月に一度あげてくれるソロ企画の動画の投稿日だったのだ。正直なことを言うとただ歌っているジノが見られるならそれで良かったのだけど、キノちゃんも大好きなので、昨日の夜は最高のご褒美をもらった気分だった。

今日を入れてあと2日もすれば、私は北海道でジノに会っている。頑張れるぞ。

 

あと、セブチの新アルバムのハイライトメドレーも発表されたわけだけど、こっちも曲調どストライクなものばかりでとても楽しみ。