会いに行く

むかしは、一駅隣はもう見知らぬ街だった。電車を寝過ごしていつもと違う駅のホームに降り立つだけで、なんだか冒険をしているようなそわそわがあった。それがいつしか大人に近づき、行動の範囲が広くなって、知らない街は減った。未知の世界にときめくチャンスも少なくなってしまった。そんなわけないのに、東京のことならなんとなくわかるような気がするようになってしまった。大人になるって、もっと素敵なことだと思っていた。つまらないな、と思う。

今、名古屋に向かう新幹線の中にいる。刻一刻と街並みが変わっていく。あ、知らない街だ。窓の外を眺めながら、少し嬉しくなる。

働くようになって、多少自由に使えるお金は増えた。とはいえ、家賃だの光熱費だの食費だの、今まで実家暮らしで親に頼っていた部分も全部自分で賄うようになっただけに、湯水のように使うわけにも行かない。服も化粧品もよほど必要に駆られない限りは買わないし、外食もほとんどしない。欲しくないわけじゃないけれど、切り詰められるところはそうしていかなければ、とてもじゃないけど火の車になってしまうからだ。

そうまでする理由がアイドルなのだといったら、笑う人もいるのだろう。

ペンタゴンに沼落ちしてからというもの、趣味にかけるお金にさらに見境がなくなった。コンサートやイベントが発表されるたびに、条件反射のように申し込みをする自分に違和感を覚えたこともある。本当に会いたくてやっているのか、お金をつかうことに酔っているだけじゃないのか。意地を張っているだけじゃないのか。これを愛と呼ぶのは果たして妥当なのだろうか。そんなことを考えた。今日の名古屋も、本当は幾度かキャンセルを考えた。惰性で会いに行くのは嫌だった。

今、移ろいゆく車窓の外を眺めながら静かにざわめくこの心が答えだろう。去年の9月にジノの声に魅せられてから3ヶ月と少しの間に、今までからしたら考えられないほどイベントに足を運んだ。目の前で歌う姿を見てきた。それでもなお、今日また彼が歌う姿を見られることが、嬉しい。嬉しくて仕方がない。

元来、飽き性な性分だ。いつまでもこの熱が続くとは、もとより思っていない。それでも、今この瞬間、私は彼に会いに行くことを選んだのだ。それは私自身の選択であり、私自身の意志なのだ。

何を決断するにも親の顔色を窺ってきた自分が、会いたいと思って、会いに行くと自分で決めて、自分で稼いだお金で会いに行く。それがどれだけ私にとって大事なことなのかは、私だけがわかっていればいい。

知らない景色の中を、ただ走り抜けていく。今から会いに行くんだ。会えるんだ。この気持ちを大事にしていたい、と思う。