180924

10時に目覚ましをかけていたが、起床したのは11時。目覚まし時計のアラームはしっかり切られていたから、どうやら寝ぼけて止めたらしいのだけど、さっぱり記憶がない。そんなにハードなスケジュールの旅ではなかったけれど、やはり日常と違うことをすると疲れは貯まるもので、泥のように眠った。質の良い眠りだった気がする。三連休は素晴らしい。

タオル類を洗濯機に放り込んで、皿を洗った。それから毎日書くと決めたのにまだ書き終わっていない一昨日と一昨々日の日記に言葉を追加する。これは果たして日記と呼ぶのだろうか、まあいいか。小説を書きたい気持ちは今は全然なくて、ただ言葉と戯れたい欲求が色濃くある。それが嬉しいなと思う。書きたいと思っている自分も、書いている自分も好きだし、何より楽しい。

先週洗ったままハンガーに掛けっぱなしにしていた洗濯物を畳んで、それから洗い終わったタオルを干して、コーヒーを淹れた。本当はあと掃除機とトイレ掃除をしたいのだけど、長めの休憩ということにする。牛乳と食パンと卵が切れるので、余力があれば買い物にも行きたいけれど、それは最悪明日の会社の帰りでもいいかな。あと、いい加減冷蔵庫に置きっぱなしの林檎が不憫になってきたのでコンポートをまた作ろうかなと目論んでいる。茄子とピーマンも使い切りたいので、メニューを考えなくちゃいけない。家事をするのは好きだ。やるべきことが比較的明確で、ひとつひとつこなしていけばきちんと達成感をものにできる。

大学に入ってから波動方程式で早々に挫折してしまったけれど、高校時代は化学が大好きだった。その頃の知識はもうみんな忘れてしまったけれど、有機化学はとくに好きだった。高3の時の化学の教員は、強面のすごく怖い人で、とんでもない進度で教科書の内容を進めていく人だった。単位を落とす人が続出する鬼授業と評判だったけれど、私は楽しくて必死に食らいついた。ただいたずらに早く進めるのではなくて、その分余裕の出た時間を全部実験に当ててくれる人でもあったから、私は結構その人が好きだった。

その時やった実験のひとつに、ナイロンの重合実験がある。ヘキサメチレンジアミン溶液に、アジピン酸ジクロリドの溶液を層になるようにして流し込むと、ふたつの溶液が接する面で重合反応が起きてナイロン繊維ができる。その面をピンセットでつまんで繊維を引き上げ、試験管にくるくると巻き付けていくと、延々と繊維が伸びていく、という難しくないわりに楽しい実験の定番だ。

言葉を紡ぐのも、それと似たような気持ちよさがあるな、とふと思い出した。明確な形を持たない思考からするすると言葉を引っ張り出して、文章という糸を伸ばしていく感じ。楽しい。気持ちがいい。

大学1年の秋頃から大学院を辞める頃まで、毎日ではなかったけれど、ノートにその時々の感情や考えを書きつける習慣があった。言葉にすると整理されたような気分になるのは、その頃から変わっていない。学部時代の頃はほとんどが恋人の話だ。青くて若くて眩しい真っ直ぐな恋心たちはとてもじゃないけれど恥ずかしくて読み返せるものではない。大学院に進学して体調を崩すと思うように書けなくなってしまったけれど、それまでに使い切った8冊は今でも机の中に保管してある。大学院を辞める決心をしてからはアナログからブログに切り替えた。タイピングの方が鉛筆を握るよりもずっと早く書けることに気が付いてからは、めっきり紙に文字を書くということはしなくなってしまった。本当はそちらのほうが好きなのだけど、手のひらを掠めていった思考を掴んでおくのに、手書きじゃ全然間に合わないのだ。キーボードでも間に合っているわけではないけれど。

ともかく、そうやって脳の中を整頓する目的で書くということはずっとやってきたけれど、「日記」を書くのは高校生の時以来だ。その時は携帯(まだガラケーだった)にぽちぽちと打ち込んだものをあとでノートに書く、ということをやっていた。それでもやっぱり書く速度が追いつかなくて、数日分まとめて書き写していたりした気がする。

日記が難しいのは、どこで筆を置くか、だと思った。その日あったことや感じたことを、その日のうちに全部書き残すのは不可能だ。だって、もう眠るつもりで布団に潜り込んだ瞬間に書きたいことが頭に浮かんできたりするわけで。だけど、翌日の日記に書いてしまったらそれはその日の日記じゃなくて、前日の日記になってしまう。そうすると今度は、高校生の頃の私や今日の私みたいに、一昨日とか一昨々日に戻った気持ちになって書き加えたりすることになるのだけど、それも奇妙な話だ。だけど私は欲張りだから、あれもこれも書きたくなってしまう。毎度2000字くらいになってしまうのも困る。休日はともかく、平日はこれじゃ回せない。今日をどこで終わらせるのか、が試される営みだなと思う。