未来をひきうける

また立ち上がれなくなった。さっきスーパーで買ってきた挽肉、まだ冷蔵庫に入れていないのに。でも、いつもみたいに気分が落ち込んでいることから来る無力感じゃない。ただ、自分の中に起きた変化の大きさに、呆然と立ち竦んでいる。

これまでにも何度もこのブログで書いてきているけれど、私は死にたがりだ。生を肯定できず、望んだわけでもないのにこの世界に私を存在させた親に大して割り切れない苦い感情を持っていて、自分と同じ気持ちを味わう人間をこの世界に増やすべきではないという確固たる気持ちのもとに子どもは生涯産まないと心に決めている。世界は悪意に満ちていて、私はたぶん多少人よりそれに敏感で、生きるのが怖くて、いつか死ぬなら今がいいとずっと思いながら死ねずに生き延びてきた。楽しいことも幸せなことも美しいものも、生きることの怖さを束の間忘れさせてくれるから、私はここまでアイドルにおぼれているのだと思う。死ねないから生きていた。私にとって生きることはずっと消去法で残った道でしかなかった。

それが少し変わったのは今年6月11日の午前零時、ジュンが誕生日の翌日に、ソロでカバーの曲をなんの前触れもなく公開した時のことだった。感情が込められたというよりは、ただ一音一音を丁寧に確認していくような淡々とした、それでいて柔らかい歌声に彼の実直さを見た気がして、ああ生きていてよかった、と随分久しぶりに強く思った。結局その翌日の午前中は会社を休んで、丹念に家を掃除した。まっさらな家をあとに、午後から出社した。あの時、私は確かにこの人に会うために生きてきたのかもしれないと思ったし、奇跡みたいな確率で今アイドルとして生きる彼のように、私も丁寧に今を生きようと思ったのだ。雨が空気中に漂う塵を洗い流していったあとの空気みたいに、世界が一段と明るくなるような、そんな歌だった。

それでもその時の気持ちをずっと忘れずに持っておけるほど強くはなくて、しかたなく生きているだけの日にすぐ戻ってしまった。仕事とか日常とか世界にまた怯えて自分を守るために何も感じなくなって、息をするように死にたいと思っていた。だけどその死にたいが、昔ほど切羽詰ったものではなくなっていたのも事実で、だから自分が少しずつ生きていくことを受け入れ始めていることにも気が付いていた。

生きていくことを受け入れ始めた自分を、受け入れられなかった。生きていくこととは、したたかでいることであり、世界の痛みから目を逸らすことだと思っていた。死にたがっている自分のほうが真摯だと思っていたから好きで、生きていこうと思っている自分が嫌だった。だからそんな、他人事みたいな表現をしていたんだろう。

明日のことを考えることはあっても、来年のことを考えるなんて、ましてや5年後とか10年後のことを考えるなんてとうの昔に辞めていた。はたちの頃は25になったら死んでいると思っていたし、25を目前にした最近は30になったら死んでいると思っていたし、40、50の自分とか想像する気もなかった。よく会社でキャリアプランはどう考えてるの?と尋ねられるけど、いやまあ、10年後は死んでるつもりですし、とは言えないから適当にごまかしてきた。未来に向き合うつもりなんてなかったから貯金をするつもりはあんまりなかったし、だから破産しない程度に使い切るつもりで、働き始めてからはかなり見境なく趣味につぎ込んできた。これからもそうやって付け焼き刃で生きていくのだと当たり前に思っていたし、それで別に良いと思っていた。

帰宅して、挽肉と長葱と2リットル入りのお茶を冷蔵庫に入れるよりも先に、パソコンを開いた。マガジンホを流して、それで立ち上がれなくなった。

どうしてかわからないけれど、聴きながら、突然昨日の夜のことを思い出したのだ。マガジンホが公開される23時よりも前のこと。シャワーを浴びながら、ふっと、ああ大学にまた行くなら、いつまでに行くのかとか、今のお金の使い方とか、考えないとなあと思った。今までも、またいつか大学で勉強したいと漠然と思うことはあったのだけど、この時はそれよりもずっと具体性を伴った願望だった。もうすぐ25になるところで、これからお金を貯めるとして、20代のうちに入学したいよなあ、と当たり前のように未来を想定した自分に、その時も驚いたのだった。

そのあと家事をこなしている間にどこかにすっかり飛んでいってしまっていたその夢が、ジノの歌を聴いてまた戻ってきた。自分がそれを夢と認識していることに動揺した。夢なんて、未来を描くことを放棄した自分には似つかわしくないと思っていたのに。

感情の塊そのものみたいなジノの歌の前じゃ、私を守っていた鎧は用をなさなかった。命を削っているんじゃないのかと思うほどに血の滲むような歌声が私の感情をかき乱して、わけわかんなくなって泣いた。ジノの歌声に泣いたことなんて初めてじゃないけど、でも今日は違った。入り乱れる思考の中心に、生きたいという揺らがない芯が見えた気がした。


生きたいと思う。生きようと思う。明日も、とか、次のコンサートまで、とかじゃなくて、もっとこの先も続くであろう人生を、私の未来を、引き受けようと思う。そういう風にきっぱりと言い切る覚悟がずっとなかったんだ。またすぐ死にたくなるんだから、どうせ、って、「前よりは生きていくことを受け入れられるように……」だとか逃げ腰の言い回ししかしなかった。

強くなるのは怖い。弱さに寄り添えなくなるのが怖い。優しさを失ってしまいそうで怖い。だから死にたさを愛おしく思ってきた。それは私の弱さの証で、優しさの証だと思ってきた。今でも思っている。生きると誓うことで失うかもしれないものが怖い。それでもその怖さを引き受けようとも思う。きっとすぐにまた死にたくなってしまうんだろうけど、ジュンとジノの歌に生きたいと思った気持ちがたしかに存在したことを、死にたがりの未来の自分が否定しないように、ここに残しておく。