したたか

昨日、たまたまテレビをつけたら、売れっ子脚本家の密着番組をやっていた。仕事は終わっていなかったのに、つい見てしまった。他人の創作過程を垣間見る機会はそうないから、こういうのはつい興味をひかれてしまう。だけど見るほどに悔しさの方が募った。どうして、今この瞬間にも書いている人がいるのに自分は書いていないのだろう。いちどそう思ったらだめだった。この1ヶ月半、うまくやり過ごせているのだと思った衝動は、全然消えていやしなかった。自分がやりたいことで名を馳せている人が、世界にはいくらだっているのだということも、私が書かずに生きている時間を他の誰かが書くために使うことができているのも、悔しくてたまらなくて、布団に頭を打ち付けたくなった。

文章で食っていきたいとか、著名になりたいとか、そういうのは全然ない。好きなことは仕事にしたらきっと辛くなってしまうから、私と書くという行為の距離感は、たまに会う恋人同士くらいの程よさが望ましい。四六時中愛の言葉を交わし合うような恋人たちを羨ましいと思うことはあっても、そういう恋愛が自分に向いていないことを、私はよく承知している。そうじゃなくてただ、私がやりたいことをほかの誰かにとられてしまうような、そういう焦りがある。見当違いだとわかっている、書くことは誰にとっても平等になしえる行為なのに。でも、私が書かずにいるあいだに、私が書きたいものをほかの誰かが書いてしまったら嫌だと思う、そんなことはたぶんないのだろうけど。私は言葉にすることで自分の輪郭を保っていて、だから書かなくちゃ生きていけなくて、それを他人に奪われたくない。書きたい。書きたくてたまらなくなって、いてもたってもいられなくて、今日もやっぱり仕事は終わっていないけど、23時までと決めて、久しぶりに私用のノートパソコンを開いた。

仕事のパソコンは毎日使っているにしても、常に私の生活の中心にあったシルバーと黒の薄べったい相棒に一週間以上触らなかったのは、はじめて自分のパソコンをもった7年前から考えてもはじめてのことだと思う。いろんなものが変わりはじめている。抗い続けた自分の中での変化に、少しだけ寛容になりつつある。

ひとつ何かができるようになると、それまでできたはずのことができなくなる。そんな、ぎりぎりのところで生きている。もともと、生きるために必要な力は人より弱くて、これでも昔に比べたらだいぶマシになったけれど、メッセージに返信できない、風呂に入れない、歯を磨けない、立ち上がれないなんていうのはもうずっと前からだ。好きなグループのことだってほとんど追えていなくて、最近はついに、食事をとれなくなった。食欲がないとか、ストレスのせいだとかじゃない。ただ、別のところに使い果たしてしまっているだけ。力配分が下手なばかりに、食べるという行為に割く力が残らないのだ。スーパーに寄って惣菜を買うとか、外食をすることすら面倒で、ただ家に帰ることしかできない。こういうときのためにとカップラーメンを買い溜めるようにしたけど、それだってしんどい。立ち上がって、お湯をポットに入れて、ビニールの包装を剥がして、捨てて、お湯を入れて、とか、それがまず面倒で、だったらいいかと食べるのを放棄するのもしばしばだ。体重は目に見えて落ちている。そうまでして己を傾ける先が仕事だなんて、たった数ヶ月前の自分さえ信じまい。

もう少し生きてみよう、と決心したのは10月のはじめのことで、それなら今は仕事を頑張るということが必要だなと判断して、それまで自分の生活の中心に据えていたものを一旦手放すことにした。アイドルも、文章を書くことも、人間らしい生活をすることも。未来の自分を引き受けることは、仕事に真摯に向き合うことでもあると思ったからだ。ちょうどその頃、会社で新しいプロジェクトに配属された。それまで、仕事が楽しいという人の気持がさっぱりわからなかった私が、今は楽しいとか思ってしまっている。なんだかそれが自分ではないみたいで、どちらかといえば仕事で活き活きするような人間にはなりたくない気持ちの方が強かっただけに、なんだかなあという感じだけど、きっと悪いことじゃないんだろう。生きる覚悟を決めただけで、こんなにも見えるものが変わる。よくできた世界だ。

今までの暇で退屈な日々が嘘のように、やらなくちゃならないことが流れ込んできて、私の前に積み重なっていくようになった。きちんと順序立てて、着実にひとつずつ片付けていけばいいだけだと頭ではわかっているのに、気ばかり急いてしまって、ひとりでパニックになっている。たぶん、ちゃんと作業に没頭できている時間より、頭が真っ白になってフリーズしている時間の方が多い。はじめの一年をのうのうと過ごしてしまっただけに、自分の無力さに苦しんでいる。今更悔いたところで何にもならないけれど、もっと勉強しておけばよかった、もっとできることを増やしておけばよかったと過去の自分を恨みながら夜が更けていく。それでも、やることがあると安心する。やることがあるというのは、必要とされているということで、その対価としてお金をもらうことに罪悪感を感じなくてもすむし、ここにいていいんだと思えるのは嬉しいことだ。

帰りは随分遅くなった。文章を書くことも、丁寧な生活を営むことも犠牲にすると決めたのは自分だけど、それでいいんだっけ、と思うこともしょっちゅうだ。でも、全部欲張れるほど私は器用な人間ではないのだから、仕方がないと思うより他にないのだ。三歩進んで二歩戻って、仕事のできない自分に不甲斐なさを噛み締めながら、それでも先週理解できなかったことが今日は理解できるようになったりしていて、たぶん、まるっきりダメなわけじゃない。そう言い聞かせている。生きると自分に誓ったあの日から、私は一度も死にたいと口にしていない。

誰かに憧れる、という感覚を、随分久しぶりに味わっている。私のことを気遣ってくれて、育ててくれようといろんなことを教えてくれて、きっと私には想像もつかないほど忙しいはずなのに、私が声をかけるときちんと時間をとって向き合って話を聴いてくれる人。まっすぐ目を見つめて、よく笑う人。明朗ではきはきとした話し方をする、めちゃくちゃ仕事ができる人。年功序列ではないうちの会社でも、指折りの若さで高い役職に上りつめた人。このあいだネットストーキングしたら10歳しか離れていないことを知って、追いかけたい背中が遠すぎてちょっと呆然としてしまった。きっと私はこの人のようにはなれないのだろうけれど、この人のことがすごく好きだ。楽しそうに仕事のことを教えてくれるから、なんだか私まで楽しいような気がしてくるし、同じ世界を見ることができたらきっともっと楽しいんだろうなと思う。昇進したいとか、そういう野心は私には似つかわしくないけれど、この人に認められたいという気持ちだけはすごくある。誰に憧れるというのはあんまり好きじゃなくて、だって誰かになりたいって自分の存在を認めないことと同じような気がしてたんだけどな。なんだか中学生とか、そんな頃に戻ったみたいで、青臭い自分がちょっと恥ずかしい。

今日、お客さん先での会議の帰り、その人とふたりで本社まで戻りながら色々話す時間があった。たぶん謙遜も入っているんだろうけれど、これだけ遠くにいるように見える人でも、自分の無力さとか不甲斐なさに悔しくて泣いたこともあったみたいな話を聞いて、すごく安心した。1年目、何もできなくて後悔してるんです、と言ったらそんなもんだから大丈夫だよ、と言われて、気休めでも少し気が楽になった。10年分をすこしでも埋めたいと思ったとき、この人だったら何をするだろうと考えている。頭のいい人だから、むやみやたらとがむしゃらに走るなんてことはきっとしないんだろうなというのはわかる。それでもどうすれば良いのか今は全然見えないから、とりあえず頑張ろうとしか思えない。まだまだなんだなと思う。自分の未熟さを思い知らされることが気持ちいい。

頭の中を掃除するみたいに書いていたら脈絡のない日記になった。早く書き上げて仕事もう少しやって寝ようと思ったのにもう1時だ。昨日も資料作りに唸って結局朝の4時までかかってしまって、そういう要領の悪さを自分で愛おしいと思わないでもないけれど、そうも言っていられない。この世界で生きると決めたからには、もっとしたたかにならなくちゃいけない。私はそれを自分にゆるしたのだ。

仕事が楽しい。折り合いの悪いなと思う人も同じチームにいるから、この先しんどくなることもきっとあると思うけど、このわくわくを忘れずに持っておけたらいいなと思って残しておく。