ぎりぎり、だめな方

ぎりぎりのところにいる。ぎりぎり、だめな方。暇だった一年目がうそのように、仕事が、それはもうめちゃくちゃにしんどい。ニュースで残業が80時間とかって耳にしていて、一体どんな地獄なんだろうと思っていたけど、毎日4時間くらいの残業なんて簡単に超えるんだと知った。うちの会社は裁量勤務制だから残業代もつかないし、だから真面目に計算もしていないけれど、11月の残業時間は140か150くらいは達しているはずだ。平日はもちろん、休日も夜中の2時まで仕事をするのが当たり前になりつつあって、さすがにまずいと思うのだけど、どうすればいいのかがわからない。それらしく立ち回る術ばっかり長けているから、こういうのをほかのひとに話しても私がただ自分に厳しいだけで案外状況は私が思うほどに悲観的じゃないはずだと思われるのが関の山だけど、そうじゃなくて、本当に大丈夫じゃない。私のせいでいろんなものが進んでいない。きつい。プレッシャー感じて泣いてる暇があったら手を動かせばいいのに、パソコンに向かって画面をにらみつけるだけで4時間とか5時間とか平気で過ぎていくのはとっくに正常じゃない。正常だったことなんてたぶんないけど。体が動かない。あれをしなきゃ、って思って、明確にその行動をしている自分を頭に描き出すことまではできるのに、物理的空間に存在する私の体はぴくりとも動かない。身に覚えのある感覚なだけに怖い。あの頃と同じだ。いつかまたあの闇の中に戻ってしまうんじゃないかってずっと怯えていたことが、ひたひたとそこまで迫ってきているのを感じる。いちど鬱になった人は、永遠にそちら側には戻れないんだと誰かがいつだか言っていたけど、つまりはそういうことで、ここで踏みとどまれる人ならば最初から鬱になったりはしない。そこに闇がいるのをわかっていて、それから背を向けて歩きだすことも振り払うことも私にはできない。飲み込まれる以外の道はない。すぐそこにいる。黒い犬はどこにも行きやしないのだ。明日会社に行けないかもしれない。布団から起き上がれないかもしれない。怖い。

少し前にあった新入社員の歓迎会で、入社して一番変わったことは?という問いに、誰かが「自分が毎朝起きてるのが信じられません!」とふざけてこたえて、それに上司が「あたりめーだ、ばか」と笑いながら野次を飛ばしていた。今私がいるのはそういう世界だ。毎日会社に行けることがあたりまえの人たちが生きる世界。私はその世界の住人じゃないのに、必死に宇宙人であることを隠してそこで生きようとしている。違うんだよ。毎日起き上がれることがどんなにすごいことなのか、生命を維持する営みがどんなに大変なのか、考えなくても生きていける人間には私はなれない。だましだましどうにか一日をやり過ごして、死なずに生き延びたことに少しだけほっとするような世界があることを彼らはきっと一生知ることはない。断絶だ。そこにあるのは、絶対的な断絶だ。

仕事が嫌なわけではないんだと思うんだけど、こうやって自分を騙しているうちにとっくにだめになってたみたいなことは今までにもあったから、全然自分の感覚に信用がおけない。会社のひとは好きだ。がんばりたいと思う。思うだけで、何もできていない。この一ヶ月、何もしていない。なにもしていないのに300時間も働いてる。ううん、こんなの働いてるとすらいえない。無駄な時間を300時間。これが会社のお荷物じゃなくてなんだっていうんだ。

私ってこんなに頭が悪かったんだなあと言い訳がましく言ってみるけど、本当は頭の良さどうこうの問題じゃないことにも気が付いている。覚悟が足りないのだ。生きると決めてはみたけれど、まだ追い込み方が全然足りない。どこかに逃げ道を探して、そんなものはないのに目の前にあるものから逃げ惑っている。今まではそれでも良かったんだ、それで迷惑を被るのは自分自身だけだったから。そうやって責任を躱して生きていく術ばかり身についてしまった。だけどこと仕事においては、この体は私だけのものではない。私がだめで、色んな人に迷惑をかけている。まだ見捨てずにいてもらえているのは、運がいいだけだとわかっている。それでもこいつ思ったより使えないなという空気はたしかに流れている。期待なんかされないほうがずっとましだ。期待させることばっかりうまくなったってどうしようもないんだ。仕事のやり方はまだ教えてもらえるけど、腹の決め方は一体誰に教えてもらえるのだろう。やらなければいけないことを、やらなければならないのだと内臓に叩き込んでもらうことまで他者に期待して、とんだ甘ったれだと思う。こうやって自分を貶めるような言葉を吐いて、それで赦されることを期待しているのもたちが悪いと思う。覚悟が足りない。全然足りていない。誰かに決めてもらうのをずっと待っている。死んでいいよ、と言われるのを待っている。ゆるされたいんだ。私はまだ自分が生きていくことをゆるせていないらしい。生きるって決めたんじゃなかったのかなあ。もう消えちゃったんだろうか。

誰かに助けてもらいたくて泣き言いってみたりするけど、差し伸べられた手を自分が振り払うのも目に見えていて、大丈夫?ときかれても大丈夫以外に答えようがない。大丈夫と聞こえるように、笑ってうーん、あんまり大丈夫じゃないかもねとかいう。笑って大丈夫じゃないよといえるうちは大丈夫なんだろうと相手が思うことを見越してそういう。私は悩むの趣味みたいなものだから、と母は笑う。その表現が的外れだとは思わないけど、そういう風に見えるんだなあと思った。そういうのにいちいち傷つくのもやめたい。そうじゃなくて、だってどうせ、何を言ったって誰も助けることはできないじゃん。この状況をどうにかできるのは私しかいない。大人になるってこういうことなんだなあと思う。伸びをしようとしたらテレビの前にあったジュンのアクリルスタンドに手があたってゴミ箱に落ちていって、なんでこんなことになってるんだろうと思いながらゴミ箱の中から大事な人を拾い上げたりとかしている。生活。生きること。

靄を一気にぱっと取り払ってくれるような魔法を期待して、近所迷惑とか度外視で深夜2時に爆音でロックを流して部屋の中で飛び跳ねて声を張り上げて歌ってみたりしたところで、まあ現実はなんにも変わらないし胸の重しも消えたりしない。楽になりたい。たとえばここで明日会社に行かなくて、自分が設定した打ち合わせも全部ぶっちして会社に行かずに美味しいものとか食べに行って温泉入りに行ってみたところで楽にはなれないので、結局楽になるには死ぬ以外にないんだなあと思っている。死なないけど。絶対にまだ死んでやらないけど、でもそう思っている。生きていくと決めたということは、私は自分に楽になることをゆるさないことにしたのと同義でもある。優しくいることを諦める代償だと考えたら、そんなものなのかもしれない。生きてる人間はすごいし、そう考えることもなく生きることができる人間はなんかもう、意味がわからない。生きる世界を間違えたなあと思う。ここは合理性と効率こそが正義の世界だ。

私が慕っている上司は、日本画が好きな人だ。私も日本画が好きで、日本画以外にもいろんな絵が好きで画集がいくつか家にあるみたいな話をしたら驚かれた。私の周りじゃあまり珍しいことじゃないのだけど、たしかに家族と仕事が人生のすべてみたいな人が大半を占める私の会社ではめちゃくちゃレアなタイプであることはたしかだ。そういう生き方のほうが、私の会社で働くということと親和性が高いのだ。そういうのを馬鹿にするわけじゃないけど、そういう生き方にも、そういう生き方をする人にもあまり興味がない。そんな中で日本画が好きだという人が思いの外近くにいたから、はじめて知った時はびっくりしたし、すごく嬉しかった。この人に、私はほかにビジュアル系バンドとジャズとK-POPと演劇を見ることと小説を書くことが好きですと言ったらどんな顔をするのだろうと思ったらちょっと愉快になった。そうだ、そういうものが好きだ。非合理的で、美しくて、存在しなくても世界はまわるけど絶対に絶対にこの世界に必要なものが好きだ。生きる世界、間違えちゃったなあ。

死なない。10年ぶりにまた好きになったギタリストのライブに行くまで、歌への愛でもってして私を魅了したアーティストの歌を聴きに行くまで、世界一大事にしたいと願う人がステージで輝く姿をもういちど目に焼き付けるまで、絶対に死んでなんかやらない。だけど、どうすれば死なずにいられるか、もうわかんない。ぎりぎり、だめな方。