労働の燃料

2年ぶりくらいに、学生時代の後輩に会った。けっして関わりが深かったわけでもなくて、でも誰よりも色んな話を聞いてもらった相手だ。口数が多いわけじゃないけれどぽつりぽつりと話す彼に引っ張り出されるように、やっぱりこの日も気がついたらいろいろな話をしていた。後半は酔いがまわってあまり覚えていないけれど、居心地は良かった。短いあいだだけ惹かれていたはずの相手に、あの頃と同じ胸騒ぎを感じることはもうなくて、だけどあいかわらず顔がめちゃくちゃ好きだった。

Kさんの仕事のモチベーションって、なんですか。そう問われて、お金が理由でなにかをあきらめたくないのだと答えたら、もっと短期的な、たとえばその日いちにちを乗り切る燃料はありますかともう一度尋ねられた。彼は、仕事が楽しいのだと言った。俺は、資本主義なんで。競争が好きだし、評価されるのが楽しいし。でも、Kさんってそういうのなさそうだから、なんでなのかなと思って。答えに窮した。わかんなかった。ずっと考えないようにしてきたことをずばりと突かれた気がして、焦った。

ずっと仕事は手段だと割り切るようにしてきた。私の愛するものは会社の外にあって、自分の持てる限りで愛するためにはお金が必要で、だからお金を稼ぐために自分の体を切り売ることに納得しようとしていた。前のプロジェクトのときはそれで良かった。得る金額のために費やされた8時間やそこらは、相応のものだと思っていた。愛するものを愛するだけの力も残っていた。その8時間がいくら退屈だったところで、その外にある時間のことを考えたらなんでもなかった。渡韓8回、参戦数34公演。楽しかった。

だけど、今のプロジェクトになってから完全にそっちに回す体力がなくなってしまった。死ぬのをやめたからには仕事にもうすこし真摯に向き合うことにしようと決めて選んだ道だったはずだけど、今が惰性じゃなくてなんだっていうんだろう。趣味にまわす体力もなくて、じゃあ毎日10時間もかけてしんどい思いをして稼いでいるお金は、なんなんだろう。答えられない。新しいことを知るのは嫌いじゃない。やらなくちゃいけないことがたくさんあるのも、まあ嫌いじゃない。必要とされているんだと思えるから。でも、そういうの全部、弱い。それらは、働くことで得られる副産物ではあるけど、働く原動力ではない。働く意味はそこにはない。ないのに、毎日9時に会社に行って、一日の半分も無心でやらなくちゃいけないことばっかり片付けている。考えることをやめるのがうまくなったなと思う。こうなりたくはなかったのに。

大学院に挫折したときに、働く意欲をくれたのはセブンティーンだった。ライブに行きたいから就活するんだって張り切って、そこからずっと、ずっと、彼らの光を頼りにここまで歩いてきた。彼らがくれるものを受け取るとき、生きていると思ったし、生きていきたいと思った。だから、その光に触れるためのことならなんでもした。去年の話だ。今年は、結局日本ツアーもチケットはひとつも取らなかった。ちょうど今週末にソウルであったファンミーティングも、チケットはとったけどどうしても元気がでなくて結局ほかの人に譲った。アルバムも発売してから1ヶ月くらい経つまで買わなかった。たぶん、前ほど彼らが必要じゃなくなってきているということなんだろう。私はもう歩いていけるようになった。それでも、失いかけていることが怖い。自分が拠り所にしてきたはずのものを失いかけているのが怖い。好きでもない仕事にしか縋り付くことができない。うちの会社にワーカホリックが多いのはそういうことかもしれない。

会社の外にあるものに目を向ける余裕のない今の私には、彼の問いかけはすなわちなぜ生きているのか、に他ならなかった。答えられない。答えられなくてぐるぐるしている。