9月10日(火)秋、はじめました

7時半起床。カーテンを開けると、待ってましたと言わんばかりに部屋に陽射しが流れ込んでくる。朝顔に水をやって、エダシャクの餌用に、大ぶりの葉を一枚拝借した。一時期ぱったりと花をつけなくなっていたが、最近はまた蕾がむくむくと増えている。エダシャクの様子を見ると、ついにキャベツを口をつけたらしく、黒に近い深緑色だった糞が鮮やかな黄緑になっていた。突然辺りが明るくなったことに驚いたのか、しばらくもぞもぞしていたが、やがて朝顔の葉の裏に落ち着いたようでまた動かなくなった。

くっきりと床に光の帯が刻まれているのを見て、暑くなりそうだと思った。青地に白いストライプの入ったノースリーブと紺のタイトスカートを選んだ。恋人はいつも、青が似合うと私を褒める。言われてみてはじめて、たしかに寒色の服がクローゼットに溢れかえっていることに気が付いた。女の子に生まれたけど、私に一番似合うのはこの色。宇多田ヒカルの歌詞を舌でなぞりながら、まぶたにも青をのせた。そろそろ夏のアンコールにも辟易してきたけれど、どうせなら味わい尽くすほうがよい。身だしなみを強要される世界には常々唾を吐きたいと思っているけれど、それはそれとして、色とりどりのきらきらは嫌いではないのである。

仕事は可もなく不可もない感じで終わって、8時すこし前に退勤した。電車のなかで自撮りをしている恋人たちがいて、日常に包含される非日常性と不自然の関係性についてすこし考えた。切り取る瞬間、ポーズをとって動きを止めるあの瞬間というのは不自然で、傍から見ていればなおのことだった。自然ではない状態、すなわち生から遠ざかっている状態。だから私は写真に写ることがあまり好きではない。そのとき感じているものを閉じ込めておきたくて写ってみたりはするのだけど、あとから見たところで、その感情を同じように取り出せるわけじゃないから、いつも騙されたような気分になる。平面になった私は、自分であって自分ではない。生きていない。むかしのひとが魂を盗まれるとおそれていたのがすこしわかる気がする。 もっとも、貧乏性なので学習はしない。恋人の端末には不自然な笑顔の私がたくさんいる。

最寄駅はまだ賑やかだった。改札の前の桜の木の前では、いつも誰かが誰かを待っている。その光景が好きでこの街に住むことを決めたのだと、毎日帰ってくるたびに思いだしては嬉しくなる。しかるに私のことを待っているひとは家にいるので、頼まれていたビールを買ったあとは足早に家に向かった。外食にする選択肢もあったが、先に仕事を終えていた恋人に料理をねだっていたのだ。 自分の家はいつだって愛しているし早く帰りたいのが常だけれども、帰るのが楽しみという感覚はそれとはまたすこし違って愛おしかった。

ドアを開けた瞬間に胡麻油の香ばしい匂いにつつまれることに代わる幸福など、きっとこの世界にはない。ただいまよりも先に、良い匂いがする!と叫んだ私を、台所からひょこりと顔を出した恋人は笑顔で迎えてくれた。一人で暮らすのは気楽だし気に入ってはいるけれど、口にした言葉が誰にも受け止められることなく空間に発散していくことに慣れていくのはすこし悲しい。良い匂いだろ、と返ってくる言葉のあるのが嬉しかった。

胡麻油の匂いの正体は茄子の煮びたしだった。くたっとした茄子が茗荷と生姜にまぎれて気だるげな艶をのぞかせていた。油揚げとしめじと舞茸の味噌汁。炊き込みご飯にもしめじと舞茸がたっぷり入っている。それと、これまたきのこがどっさりのった鮭のバターホイル焼き。玉葱の甘さとバターの塩気の相性の良さについ頬が緩んだ。残暑のあいまに逃げ隠れする秋のしっぽをむりやりとらえたみたいなメニューだった。いささか気が早いけど、と恋人は笑った。けして似た境遇で生きてきたわけでもないのに不思議と共通項の多い間柄ではあるけれど、こと互いの食の嗜好については絶大な信頼を寄せている。だから食べる前からおいしいことはわかりきっていたけれど、それにしたってできることなら食べ終わりたくないほどだった。 満ちていく自らの腹が憎らしかった。こんなに満たされちゃったら明日死ぬんじゃないかな、とこぼしたら、恋人は満足げにしていた。翌日も仕事だというのに、夜更けまで他愛のない話をして、体温を感じながら眠った。恋人といるのは楽しい。