9月11日(水)還

今は仕事が忙しくないからとのたまう恋人のせいで、私までつられて8時まで微睡んでしまった。私のほうはそんなに悠長にしている場合でもなかったのに。そのくせやっぱり先に起き出したのは恋人のほうで、私が寝ぼけまなこでシャワーを浴びて出てくる頃には、食卓にはハムと目玉焼きをはさんだイングリッシュマフィンが並んでいた。それと、昨晩の炊き込みご飯の余りを焼きおにぎりにしたもの。

洗面所で身支度を整えていたらキッチンの方から名前を呼ばれたので近寄ると、恋人がちょうど挽いたばかりのコーヒーの粉に湯を注ごうとしているところだった。粉がふくらむ様子を一緒に見たかっただけだとはにかんだ。湯を受けた粉はむくりと身じろぎして、ふつふつと泡を立てたあとに朝の匂いを立ち上らせた。豆は、恋人が家の近くの行きつけだという店から買ってきてくれたもので、酸味がすくなくてまろやかで、私たち好みの味がした。恋人がいる日は朝がしゃっきりする。

けっきょく9時近くまでコーヒーを飲みながら贅沢な時間の使い方をしてしまったものだから、会社に着いたのは10時半を過ぎていた。やるべきことさえやっていれば、どこにいようと、何時に出社しようと誰も文句を言わないのは弊社の好きなところのひとつだけれど、さすがにすこしばかりの罪悪感は覚えたので、それを燃料にしばらくは集中して作業をしていた。会議のすくない日は、自分のペースで作業ができるから好きだ。でも、午後になって作業に行き詰まってしまってからはだれてしまった。時間の使い方がうまくなりたい、と2年間思い続けているけれど、まだ道のりは長い。それでも、2年前にくらべたらできるようになったことはたくさんある、と言い聞かせる。そこに寄りかかりすぎてもいけないのだけど。19時半に最初で最後の会議を終えて退社。

会議が長引いたので、両親との食事の約束には1時間ほど遅れた。店についたときには、ふたりともそれなりに出来上がっていた。駅に直結した雑居ビルに位置する中華料理屋で、ビルも、店も、お世辞にもきれいとは言えない佇まいだったが、料理はびっくりするくらい美味しかった。メニューらしいメニューは存在せず、客がストップをかけるまで、小皿の料理が次々に運ばれてくる。黄韮とベーコンの炒めもの、鹿肉のカシューナッツ和え、八宝湯、蛇瓜と牛肉の炒めもの、衣笠茸と鱶鰭の煮込み……薬膳の考え方を基礎につくられているという料理はどれも優しい味付けで、それなりの量を食べたわりに、中華料理を食べたときにありがちな胃の重たさはさっぱりなかった。店を出る時に見送ってくれた料理長は、翌日体調がいいはずですよ、とうけあった。

父も母も上機嫌だった。いまだにひとことで家族を好きだと表現することには抵抗があるが、大事なひとびとであることは間違いがないのだった。父は今日で60になった。もう60ととるか、まだ60ととるか。これまで私が生きてきたのと同じだけの長さを、父もこれから生きるかもしれないのだ。だけどそれにしても随分と年をとったな、と寂しくなった頭部を盗み見て思った。親が老いていく現実にどう対峙すればいいのか、いまだにわかりかねている。遅かれ早かれ向き合わなくてはならない時が来るのもわかっていて、ふたりがすこしでも長く、今みたいにいてくれたらいいと思った。