9月14日(土)現在正義主義

10時半、目覚ましにて起きる。洗濯機をまわして、朝顔に水をやって、午前中に対応することにしていた仕事を片付けるためにパソコンをひらいた。すぐ終わると思っていたのだけど、甘く見ていたようで、けっきょく自分の中で納得するところまで辿り着いたときにはすでに15時過ぎになっていた。途中、集中力が途切れて気を散らしていた時間もあるにせよ、このところの会社での無意義を考えたら、よほど質の良い時間だった。これを平日にできるようにならなくちゃいけないのだけど。不均衡だ。

日頃から、あるラインまで納得しないと食事をとることを自分にゆるせないという悪癖があって、この日最初の食料は16時過ぎのイングリッシュマフィンだった。とろけるチーズとハムをのせてトースターにつっこんだだけだが、存外これが美味しくて、がっついたせいで熱々のチーズに牙を向かれた。

洗濯物を干して、簡単に掃除機をかけたところで一息ついて、ベッドに呼び寄せられて身を投げた。窓から入ってきた秋の空気に冷やされたシーツはひんやりと心地よくて、対照的にタオルケットがほんのり温もりをもっているように感じられた。 まさに岡野大嗣の歌のとおりだなあと思いながら、そのまましばらく微睡んだ。

土曜日のタオルケットのはだざわりだけだよぼくにやさしいものは

こんなに心地の良い昼寝もそうないだろうと思うような、贅沢な眠りだった。

18時ごろに家を出た。恋人の誕生日プレゼントを探すつもりで百貨店に行ったものの、客よりも数の多い店員の威圧感に早々に音を上げてしまった。透明人間になりたいと思うことはあまりないけど、数少ないその瞬間である。ざっと見た限りでは気に入ったものも見当たらなかったので、プレゼント探しは日をあらためることにする。そのあとは、友人に誘われていたライブに行った。友人の恋人がやっているバンドだ。高校生の頃は、いろいろな縁でライブハウスに頻繁に行く機会があったのだが、いつしかそういうのもなくなって、随分と久しぶりだった。

ステージが好きだ。演劇であれ、ミュージカルであれ、アイドルのコンサートであれ、ロックバンドであれ。ステージのうえに立つひとも、下から見上げるひとも、等しくその瞬間のためだけに生きているから好きだ。過去と未来ばかりが重きを置かれがちな世界にあって、現在こそが絶対的正義の空間というのはそうあるものではない。もっと音を感じて、もっと体を揺らして、その瞬間自分がいちばん心地よいと思う生き方をリアルタイムで選び取る、そういう場所。あの場にいる誰も、明日のことも昨日のことも考えていない。それって最高だ。

ライブのあとは、その友人と、その場に居合わせた友人の友人たちと、総勢10人で食事に行った。年々悪化の一途をたどる人見知りを持て余して一瞬腰が引けたものの、気さくなひとたちだったおかげで、ほとんど初対面だったにもかかわらず、自分でも不思議なくらい素直に楽しむことができた。私以外はほとんどお互いに面識があるようだったけれど、疎外感をまったく感じることがなくて、みんなすごいなと思った。愛するのにその場にいるから、以上の理由なんか必要ない、みたいな空気があった。すごく穏やかな気持ちでいられて、私は誰かにこんな安心感を与えることはできるのだろうかとすこし考えてしまった。知らない人間と酒を飲むのは苦手だったし、避け続けてきたから、こういう場が楽しいこともあるんだなというのは発見だった。別れ際、また呼んでねと言ったのはお世辞でもなんでもない本心だ。

日付が変わって帰宅したところで、酔った元恋人から電話がかかってきた。大学の同級生と飲んでいるから今から来ないか、という、数ヶ月おきに来るいつもの誘いだった。もう電車ないから行かないよ、と言ったら、そうかあ、じゃあなと一方的に電話を切られた。午前3時をまわった頃にもういちどかかってきて、この時間に起きてるのはおまえくらいだ、というのでそれはそうだろうねと思った。今でこそ恋愛感情なんかきれいさっぱりなくて、友愛とも家族愛とも性愛とも違う、あっさりとした愛情だけがあるけれど、このひとの弱さと隣合わせの奔放さには今でも惹かれている。あちらに愛想を尽かされることがないかぎり、こうしてつかず離れずの距離にいるんだろうなあと思う。良い土曜日だったな、ととっくに日曜になった世界で思った。