1月2日(木)単調な魔法

9時前に起床。昨晩寝たのが2時近かったわりには早い時間に起きられたので、すこしばかりの達成感をおぼえる。箱根駅伝ではまだ1区を走っているところだった。

体を動かすことも、スポーツ観戦もとくに好むほうではないし、どちらかといえば嫌悪のほうが強いくらい(その周辺についてまわる宗教じみた根性論だとか努力神話だとか、いわゆる「体育会系」の文化風習にはつよい抵抗感がある)だが、箱根駅伝だけは好きで毎年欠かさずに見ている。ランナーが走っているだけ、それだけのことだ。彼らは時折汗を拭ったり、時計に視線をやったりするくらいで、淡々とフォームを崩さずに走り続ける。サッカーやラグビーや野球みたいに、流れがぱっと変わるような名シーンもないし、劇的なドラマ性というのとは縁の薄い競技だと思う。でもきっと、走っているだけだから好きなんだと思う。単純で単調、それなのに景色がぐんぐん変わっていく。じわじわと世界が塗り替わっていく。それがなんだか魔法のように思えて面白い。

テレビを見たり、昼食を食べたり、文章を書いたりしているうちに午後になっていた。15時すぎにレモンマドレーヌと、シュトーレンを食べた。これでけっこう満腹になってしまって、2時間ほどソファで昼寝した。起きてからはずっと携帯の画像フォルダをさかのぼっていた。

自分の存在も感情も目にした世界もなかったことになってしまいそうなのが怖くて、必死にファインダーを覗いていた時期もあった。しかし最近はすっかり鈍化して、そんな恐怖を抱くこともなくなって、刹那を永遠に変換する装置としてのカメラには興味を失ってしまった。自分が生きているかどうかなんてどうでもよくなってしまった、そんなことについてゆっくり考えさせてくれるほど生活というやつは易しくなかったし、記録しておくほどの価値を自分の生活に見いだせなくなったということでもあった。

それが恋人といるようになって、忘れたくないと思う瞬間が増えた。それで、携帯電話でまた撮るようになった。画像フォルダは恋人と行った場所や食べた料理の写真ばかりだ。でも、見返してみると、記録しておかねばならないという焦りが先立っているのを感じさせる、どこかぞんざいさの匂う写りばかりだった。もったいないなと思った。だから今年はちゃんと撮りたいのだ。携帯電話でも、一眼レフでも。

夕食は洋風だった。母の料理はどれも美味いが、2センチほどの輪切りにした長葱を、オリーブオイルでやわらかくなるまで炒めて、アンチョビの欠片を散らしたものと、カレー粉であえたキャロットラペはとくに気に入った。そう難しい料理でもないので、そのうち自分でも作ってみることにする。

一歩も外に出なかった日だった。ひとつの休日の楽しみ方としてはありだろうと思う一方、やはり外に出たほうが書きたいものには出会えるような気がする。昨日の桜鼠の空が早くも恋しい。