2月15日(土)透明人間

頭がいたい。考えるまでもなく、寝過ぎである。会社の飲み会を終え恋人と帰宅して、眠りについたのが午前1時。ようやく起き出したのは17時近かったから、実に16時間は布団のなかにいたことになる。恋人が家を出ていった記憶が微かにあって、それ以降も時折目を覚ましてはいたものの、起き上がる気になれなかった。ぼうっとしていると、すぐに睡魔がやってくるので、それに身を任せていた。今夜また眠りにつけないのかと思うと気が滅入る。体調はずっと冴えない。睡眠不足と栄養不足、規則正しさとは程遠い生活習慣。そこら中、心当たりだらけだ。生活習慣を正しましょう、なんて簡単に言うな、と思う。仕事はなくならない。嫌いじゃないからなおのこと傾倒してしまう。ひとつのことにしか目が向かないのは昔からだ。きっとこの性分はいつか身を滅ぼすだろうと思うが、それ以外の生き方も知らない。仕事をやめるか、もうすこし楽な仕事に就くかしないかぎり変われないのだろうが、そしてそうなったらなったで私はちゃんと楽しめるであろうけれども、今の私はそれを望まない。ただ、体が重い。呼吸も、筋肉も、思考も、なにひとつ思い通りになりやしない。私でいることが楽しくない。床には脱ぎっぱなしの洋服が散乱し、数日前の朝食の食器がテーブルにそのままになっている。だいぶ伸びてきた髪の毛は、フローリングで存在感を主張するようになってきた。それらと目が合うたびに落ち込む。おまえはちゃんと生きていない、と言われているような気がする。

仕事は嫌いではない。ぜんぜん。楽しいし、同僚たちは信頼できるし、信頼されているとも思う。評価されるだけの根拠があると思える、自信もある。自分のいる意味がきちんとある。かつての私はそれを望まなかったが、会社はまちがいなく居場所になりつつある。それも悪くないかなと、今は思う。だけど、いつ糸が切れるのだろうと怖い。もしかしたら今がそうかもしれないと怯えている。また週が明けたらちゃんと戻れるだろうか。大学院にいけなくなったときのことをたまに思い出す。あのときみたいに辛くはないけど、負荷の大きい生活をしていることは確かだ。ぷつりと切れたとき、その先に何が残るのだろう。

本を読めなくなった。おもしろそうな映画の話題がタイムラインを賑わせているけど、観るところまで行動をおこせない。どうして皆、そんなに趣味に割く元気があるのか不思議だ。本にしても、映像作品にしても、音楽にしても、絵画にしても、そこには作り手の熱量が込められている。それを受け止めるだけの熱量が、今の私にない。受け止めようと覚悟を決めるだけの熱量がない。友達と会うことも億劫で、最近はあまり約束もしなくなった。カレンダーはいつも閑散としていて、そのことに安心するようになった。予定がないほど、誰かに迷惑をかける可能性が減るということでもある気がするから。

会社を一歩出たら、死んでいるようなものだ。家から一歩も出ず、誰の目にも留まらず、人知れず言葉を連ねるだけの生き物になるとき、私は社会の構成員ではなくなる。透明になる。こんなふうに生きていたいのではない。でも仕事はやめたくない。むちゃくちゃな話をしているのはわかっている。