愛する手段

最近書かないの、と尋ねられて、自分の文章を待ってくれるひとがいることの嬉しさを久しぶりに感じてちょっと泣きそうになった。創作をしていた頃から、誰かのために書くわけではない、私はいつだって私のためだけに書いている、そういうスタンスを失わないようにずっと意識してきた。誰かのために書こうとしたら、書きたいものを見失ってしまうであろうことも、自己顕示欲に飲まれることもわかっていた。もっともあの頃だって、今ふりかえるとけっこうじゅうぶんに欲に身を侵されていたと思うけれど、自分のために書く、というのをしつこく言い聞かせて、なんとか正気を保っていたような感じだった。だけどそのわずかな正気のせいで、自己顕示欲に塗れていく自分がことさら際立って見えてしまって、それで書けなくなってしまった。私は違う、そう思おうとするほど、ツイッターのフォロワー数に視線が行く自分が苦しかった。フォローありがとうございますなんて意地でも言いたくなくて、そのくせアカウントにはちゃっかり鍵をかけなかった。自家撞着に陥っていることなんて百も承知で、それを認めることができない自分に我慢ならなくなった。いっそ素直にその欲に身を投じていたら、今でも書き続けていただろうか、とも思うけど、そうしてできたものを今読み返して愛せたかと問えば否だから、まあ、なるようになったということなんだろう。でも、はじめはもっと単純なことだったはずなのだ。書くのが楽しかったし、読んでもらえるのが嬉しかった。

愛されたいけれど、愛されるのが怖い。自分の存在が、誰かにとって意味のあるものになることが怖くてたまらなかったし、だから好意を向けられると拒絶してばかりいた。それなのに文章に対する賛辞は素直に受け止めて喜ぶことができたのは、それが作り手である私の存在の肯定でありながら、私そのものではなく文章への肯定にすぎなかったからだ。文章が代わりに愛されてくれたから、自分で直接他者の好意に対峙する必要がなかったのだ。そんなことに今更思い至って、妙に納得している。それはけっして健全な状態ではないけれど、自分の文章を待ってくれるひとがいるというのは嬉しいことだし、嬉しいと思うことまで躍起になって否定することもないかもしれないなと、書かなくなって以来初めて思った。

書くというのは、私にとっては文字通り自分との戦いだった。けっして執筆速度が速い方ではないのは、ひとつの文章を完成させるまでに、百通りもの千通りもの否定や懐疑の声が聞こえていたからだ。自分の書こうとする言葉を疑って疑って疑い抜いて、その声をひとつずつ潰して、やっと納得のいく文章ができあがる。そんなことだから、書くのには膨大な集中力と体力を要する。

働くようになって、まずその体力が奪われた。四六時中仕事のことで気が休まらないから、集中力も落ちた。自分自身に対して批判的な視点を持てなくなって、思考の深度が如実に浅くなった。これじゃまずいと思って何度も書こうと思うのだが、書く持久力が落ちているのだから、自分の感情や思考をつかまえることもできやしないのである。自分のことなのに、わからなくなった。書くことは存在証明だったのに、それができないから、生きているのか自信がなくなりつつある。

先日、久しぶりに自分が書いた作品を読み返して、泣いた。読み返したときに自分を泣かせるような文章は今はもう書けないけど、いっときでも書けた自分が存在したことは、たぶんこれからも私にとっての救いであり続ける。過去の栄光にすがって生きるくらいはゆるしてやってもいいだろう。でも、そればかりだと、この先自分を愛せなくなるときがまた必ず訪れるだろうというのもわかる。だから、やっぱりきちんと文章は公開するようにしようと思う。書けなくなってからも何度も口にした決意だけど、懲りずに、恥ずかしがらずに、また掲げよう。まえみたいに1000人ものひとに読んでもらえるようなことはないけれど、外に出せるクオリティの文章を書き続けることは、何よりも私のために必要なことだ。愛される手段としてではなく、愛する手段として書く、という転換への挑戦をしてみようと思う。

リハビリとしての日記はこっちでも書いています
https://m00nwa1ker.hatenablog.com/