5月15日(金)娘

心が死ぬ、という表現がある。安易に口にしてしまう言い回しだけれど、実際のところ、死ぬというよりは、岩になる感覚に近い。自分の心が、思考が、鈍化していく。固化していく。毎日、仕事だけして終わっていく。ドラマを見たり、アイドルの映像を見たりしているはずなのに、仕事だけしかしていないような気がする。何も響いていないからだ。ハンマーを思い切り振りかぶって、自分の心を打ち砕くことができたら、その内側からもっと柔らかな部分が現れやしないだろうかと考えている。

夕飯は豆ごはんだった。近所のひとが、おすそわけだといって畑でとれたのを持ってきてくれたのだ。豆ごはんは、豆を米と一緒に炊き込むのではなく、別に茹でておいて、炊きあがった米に混ぜ込むのがいいらしい。そのほうが豆の色が褪せないし、しわくちゃになることもないからだ。鮮やかな緑に、ちょっと心がはねた。

感染症の流行に背中を押される形で実家に戻ってきてから、一カ月半が経つ。感情が摩耗しているのは、このせいもあるのだろうとわかっている。

親との関係は良好だ。思春期には親に対して割り切れない気持ちを持っていたこともあったが、いつからかほとんど感じることがなくなった。けれど今、2年前に家を出てからほとんど意識することがなかった、娘としての自分の存在を日々思い知らされている。今の母はけっしてそうではないけれど、幼かった私に自我を持つことを、当時の母は許さなかった。それがどう自分の発達に影響したのかはよくわかっていないけれど、今でも、母親の前で、自立した個人として振る舞うことに対して強い抵抗感がある。だから、自分ひとりの家に帰りたいと言い出すこともできないままひと月半も経っている。嫌いだとか疎ましいだとか、そういうネガティブな感情を抱いているわけではない。死んでほしくないし、悲しませたくないとも思うし、好きだとか愛情だとかいう表現はいまひとつ腑に落ちないものの、まあ大事といえばそうなんだろうと思う。でも(だからこそというべきかもしれないが)、親と真剣に対話するということを、私は避け続けている。親子の会話っぽい応対をただ機械的に打ち返しているだけだ。そこには、誠実さも真摯さもない。会社の同僚に接するのと同じように、最適解の、「適切な」コミュニケーションだけをただ淡々と繰り返す。

両親が直接口に出すことはないけれど、リストカットをしたり風呂場でしゃがみこんで2時間立ち上がらなかったり壁に頭をがんがんと打ち付けながら泣き喚いていたりしていた手のかかる娘が、いつのまにかすっかりおとなになって、自分らの手元からあっさりと離れていったことに、さみしさをおぼえているらしいことは想像がつく。ろくに家事もせずに仕事三昧で実家に居候している私に、冗談で文句を言いこそすれ、けっして帰ることを勧めないあたりが、もう重たくてしんどい。特に父親は露骨に嬉しそうで、無下にすることもできない。帰りたいと言い出したらどんな顔をするのだろうと思うと、とてもじゃないけど言い出せない。きっとさみしいのを押し隠して、ものわかりのいい親でいようとするんだろう。娘に嫌われたくないから。それか、私を気遣う体で引き留めようとするか、だ。いじらしいなと思う。親のそういういじらしさを目にしたくない。一方で、そういう親の愛情を感じるから余計に、脊髄反射の、誠実さを伴わないコミュニケーションであしらっていることに対する罪悪感が募る。距離があったときのほうがよっぽど良かった。26になった今でも、親の前で私は娘だ。それを再確認するごとに、気力が吸い取られていくように感じる。

帰りたい。


元恋人から脈絡もなく、「風ノ旅ビトの会社の新作が結構いいよ」と連絡が来た。調べてみたら、iPhoneじゃないと遊べないものだったから、Androidユーザーの私にはしばらく縁がなさそうだったけれど、その連絡は嬉しかった。彼の家で、夜中に風ノ旅ビトを遊んでいたことを思い出す。ゲームは普段ほとんどしないのに、よぶんな言葉をいっさい排除した、静謐な美しさをたたえた世界観に魅せられて、彼と別れてから自分で購入した。お金を出した唯一のゲームソフトだ。あいかわらず操作方法もわからないままだが、誰もいない砂漠できらきらと砂が煌めくのを見ているだけでも気持ちがふっと凪ぐ。

元恋人の家は、隙間風が多くて、空気の匂いの変化が顕著な家だった。大学の同級生と3人でシェアハウスをしていて、いつも誰かしらの友達が遊びに来ていて賑やかだった。院生時代、差別と罵倒と偏見に満ちた研究室のせいですっかり見失ってしまった世界の美しさを思い出させてくれたのは、彼とあの家である。もう契約が切れて今は引っ越してしまったようだけど、あの家が大好きだった。もっと写真をとっておけばよかったと思う。一生忘れたくない場所だ。

別れてから3年近く経つが、元恋人は変わらない。あいかわらず学生をやっている。刻々と変わっていく自分がおそろしくなるとき、元恋人と話すと安心する。卒業式には祝いに行こうと思っていたが、それもできそうもない。変わらないでいてほしいと思うのはエゴだから、本人に言うことはしない。心配しなくても変わりゃしないさ、と言われそうである。