5月16日(土)おいとま

朝の5時くらいまで文章を書いていたので、14時に起きた。実家にいると、サイクルを安定させようと意識しなくても生活がまわってしまうので、改善する見込みは一向にない。フェミニストを標榜する身でありながら、食事の用意も洗濯も掃除も母にまかせきりにしているのはたいへん気分が悪い。帰りたいなどと言いつつ、娘の立場でいることで得られる恩恵を嬉々として享受しているのは、ほかでもない私である。それがわかっているので嫌気がさす。まともな食事にありつけること以外に、実家にいていいことはひとつもない。

昨日風ノ旅ビトのことを考えたらやりたくなってしまったので、起きてからしばらく遊んでいた。やっぱりすごく美しくてさみしい世界だった。プレイ中、画面には一切の言葉が登場しない。同じようにこの砂の世界にアクセスしている、現実世界に生身を持つどこかの誰かが画面にあらわれて、協力したり、しなかったりしながら進んでいく。コミュニケーションの方法は、あわく光を発するだけ。チャット機能もなにもない。キャラクターには表情がないから、相手が怒って発光しているのか、励ましてくれているのかもわからない。

飛んだり、歩いたりしながら進んでいく、それだけといえばそれだけのゲームだ。ジャンプはできる回数が決まっていて、特定の場所に行くと回復するほか、協力するプレイヤーがいると相手に回復してもらえる。高いところにジャンプしないといけない場面で、へたくそな私はうまいこと上の足場に飛び乗れずに何度も失敗していた。そのとき協力していたプレイヤーは私よりもずっとうまくて、軽々と飛び上がっていたが、私が失敗しているとまた下に降りてきてくれて、何度も回復してくれる。失敗するたびに画面の前で「ごめん~~~!」と叫んでいたけれど、その申し訳なさにしても、相手には光でしか伝えられない。ごめん!って思いながら発光すると、相手も光りかえす。その光が「気にするな」なのか、「いい加減にしろ」なのかがわからなくて怖い。ふだん、いかに表情と言葉に頼っているのかがよくわかる。あまりにもうまくいかない私に付き合わせるのが忍びなくて、けっきょく途中でゲームを止めてしまった。

仮想世界の、顔も名前も知らない、言葉も交わせなければ表情を窺い知ることすらできない相手であっても逃げ出すことしかできないあたりが、私の対人スキルの限界なのだろうなと気が付いてちょっとおもしろくなってしまった。

自分に向けられる好意が理解できない。親切にされるのも、親しくしてもらえるのも、好意を寄せてもらえるのも怖いから、関係をぶった切って世界そこで終了。学ばねーなーと思う。一度や二度の話じゃないし、そういうことしかできないせいでひとを傷つけてきた自覚はとてもある。そのうちのひとりに、そういうあなたの弱さのせいで傷つくひとを生んだことを毎日後悔しろと詰られたことがある。彼女の怒りは正当だ。傷つけたくないのでなるべく人と関わらないようにしていますとか言ったら、それはそれですごい剣幕で怒られそうだなと思う。誠実でいるには強さが必要で、私は弱いので誠実な人間になりそこねている。

ツイッターのタイムラインで『凪のお暇』の話題が流れてきて、読みたくなったのでアプリで購入した。あらすじだけ読んで、周囲に馴染めなかったひとが心機一転自分の居場所を見つける!みたいなほんわかストーリーだと思っていたのがすべての間違いだった。心当たりのある描写の連続に削られて、アプリで公開されている分を読破し終えた今、げっそりしている。

この作品を自分の話だ、と思ってしまうのが悔しい。自分の感情や存在を他者に代弁されるのが何よりも嫌いだ。私自身がありふれているということじゃないかと思ってしまう。私のことを書けるのは私だけであってほしいのに。そういう、唯一の存在でいたいみたいな幼稚な欲望に気付かされるところまで含めて不愉快だ。カタルシスを得るどころかダメージくらって撃沈する午前4時。でも、こういうの嫌いではない。

ゲームと漫画でほとんど一日が終わった。いつぶりかに仕事をしなくてすみそうな週末だし、時間の使い方として間違っているとは思わないけれど、凪ふうにいうなら、「なんだかなぁ」である。今は短歌集が読みたい。