5月19日(火)ひとづきあい

寝坊して、会議がはじまる5分前に父に起こしてもらった。これも実家にいてよくないことのひとつだ。帰りたい。

翌日の会議の議題が決められなくて、23時過ぎまで唸っていた。仕事はちょっとしんどい時期だ。ぜんぶ最悪で、ずっといらいらしていた。夜に恋人と電話した時も愚痴をぶつけてしまった。解決の糸口が見えないから余計に深みにはまるのだ。誰か引っ張り上げてくれ、と思うけど、他力本願でどうにかなる立場じゃもうない。自分が意味のある存在であることは嬉しいと思うけれど、やっぱりしんどいと思う時はある。全部投げ出して一日中短歌集と画集を読んで過ごす日がほしい。

月末に祖父の三回忌があるが、位牌は老人ホームに入居している祖母のところにある。面会謝絶なので取りにいけない。郵送でも送ってもらったほうがいいのか、と親が話していて、祖父が箱に入って送られてくるのかと思ったら、ちょっと面白くなってしまった。お寺に電話したら、位牌はなくても法要はできるらしいので落着した。

外出自粛に伴って、世間はオンライン飲み会なんかで盛り上がるようになった。交友範囲の狭い私にはほとんど縁がない世界なので、なおのことねっとりとしてきた他人の交友関係に傍観を決め込んでいる。友人や元恋人からの数少ない飲み会の誘いも、実家にいるからと先延ばしにしている。人に会えなくてさみしいという感覚はとくにないので、それで困ることもないのだが、不意に強烈なさみしさに襲われることが最近は増えていて、ちょっと厄介だなと思っている。これ以上他者を大事にするキャパがないのは承知なので、今の人付き合いでじゅうぶんすぎるくらいなのだけど、その強烈なさみしさの前にそういう理屈は通用しない。

ところが今日になって、ほとんど使っていないインスタグラムから通知が来た。なにかと思ったら、大学の後輩から、ブックカバーチャレンジというバトンがまわってきたのだった。私は彼の顔だちがとにかく好きで、会うたびに本人にそれを伝えるのだが、彼は自分の魅力をよくわかっているので、いつもあっさりと私の賛辞を受け流す。もっとも、私が直球の好意を表明できるのは、彼に深入りする気がないからだし、彼もそのことをわかっているから私をあしらうのである。彼のことを私はほとんど知らない。本とバスケットボールと洋服が好きなことくらいだ。愛情もなければ友情もない、連絡も一切取らない、死んだとしてもお互いに連絡が行くこともない。つながりとしてはきわめて薄い、というよりもほとんど他人である。それが心地よいので、年に一度くらい、話し相手になってほしい時(と、顔を眺めたくなった時)に食事に付き合ってもらう。そんな程度の仲だから、彼が私にバトンをまわしてきたのはかなり意外だった。思慮深いひとだから、「この人の選ぶ本が見たい」という相手として選んでもらえるのは、率直に嬉しいと思った。何を選ぼうかをずっと考えている。楽しい。他者と関係するというのは面倒なものだと思いがちだけれど、こういう嬉しさもあるのだと久しぶりに思い出した気分だ。前に会ってからそろそろ一年近く経つし、年内には食事に誘おうと思う。

たかだか日記に1000字も書くのやめたい。やめたくない。