5月26日(火)思考は呼吸

ああもう無理だ、と思ってプライベートのパソコンを開いた。こういうときは文章を書くに限る。午前1時をまわったところだ。明日10時からの会議の資料はほとんど手つかずである。議題すら決まっていない。手は動かないし頭も働かないのに焦りばかりが高じて呼吸が怪しくなったので、ひとまず目から漏れた水分を乾かすべく、いったん手を離すことにした。言葉をいじくりまわすのはパズルと同じだ。ひとつずつパーツを拾って、あるべきところにはめこんでいく作業は、思考はするが消耗はしない。しばらく続けているうちに、だんだんと気持ちが凪いでくる。おかしなことに聞こえるかもしれないけれど、私にとっての瞑想はこれだ。むかし、もっと気持ちの振幅が大きくて危うかった頃、マインドフルネスの講座に行ったことがあるけれど、「思考を手放してください」と教えられたのに反発してしまって続けられなかった。思考は呼吸だし、言語が現実だ。だから、目を閉じる代わりに書く。もっとも、これも「今、ここにある自分」との向き合い方のひとつという意味では、案外マインドフルネスに近いところもあるのかもしれない。睡眠時間と引き換えに得ている時間だけれど、頭を抱えているよりは建設的だろう。寝ない覚悟さえしてしまえば、大抵のことはどうにかできる。

大学時代も、こうやって夜なべして課題をこなしていた。でも、学生のときと違うのはやはり、仕事は自分のなかで完結しないというところだ。親の金で大学に通えた人間がいうべき言葉ではないのかもしれないけれど、単位は落としたって私しか困らなかった。今はそうじゃない。私の言葉と思考を待つ人がいる。調子の良いときはそれが嬉しく思えるのに、今はただただ重たいだけだから身勝手な話だ。

悪者がいるほうがずっと良かった。あいつのせいでしんどいんだってなすりつけることのできる人間がいてくれたら楽だった。でも、上司も同僚もクライアントも、ひたすらに実直で、私の何倍も働いている。みんな良いひとたちだ。このひとたちのために頑張りたいと思えてしまうくらいには、良いひとたちだ。だから、このつらさをどこにぶつければいいのかわからなくて苦しい。仕事は計画どおりに進まないものだし、どうしてそうなったかについて思考を割くのは今やるべきことではない。私が今考えなくてはいけないのは、うまくいっていない今、どう切り抜けるかのほうだ。わかっている。なのに、未練がましく、どこで間違えたかなと振り返ってしまう。それなりに力を発揮できている自負があったのに、霧の中に迷い込んでしまったらそれすら揺らぐ。私、こんなに怠惰だったんだな。こんなに力不足だったんだな。考えても意味のないこととわかっているけど、責めるべきものが外にないから、刃は自分に向けるしかない。傷ついていればゆるれされるかもしれない。甘ったれてるなあ。

仕事のことばかり考えて気が滅入っていくせいで、恋人ともうまくいかない。一緒にいる期間が長くなってきて、甘えが出てきているのかもしれない。一緒にいることに慣れても私といる世界の解像度をさげたくないと言ってくれたひとに対して、こんな形で報いることしかできない自分が情けない。誰かを愛するにはおまえは弱すぎるのだと嘲る自分がいて、そいつが現れる時間はだんだんと長くなっている。消えたくなる。

労働時間を除けば、人権に対する意識はきわめてまともな会社だ。給与水準も文句がない。だからできることなら辞めたくはない。人権感覚は譲歩できない(大学院ではそのおかげで痛い目を見た)し、金銭的に自立することも諦めたくなかったから、多少の忙しさは甘んじて受けようと思った。でも、「多少」の域を越えている。プロジェクトワークだから、あとひと月耐え抜けば一時的には解放されるだろう。でも、その先はまた同じことの繰り返しだ。こんな状態で、どこに続いているのかもわからない道を歩き続けるのは、気持ちも体も、もつ気がしない。足場を変えることを真剣に検討すべきだろうかと思うけれど、今まで自分が築いてきたものを捨ててまで、新しい場所に行く勇気がない。そうやってずるずる働き続けるの、まるでDVみたいだな。気力が奪われていく。もう一度大学で学び直したいという願いを叶える日は来ないのかもしれないな、と最近思う。今はただ休みたい。休むことをゆるされたい。そんなことを言っていても朝は来るので、会議資料を作るところに戻るしかない。午前3時になった。