6月5日(金)学びたい

8時58分に起きて、9時から会議。そこから文字通り休みもなく、夕方までひたすら打ち合わせが続いた。自分がメインスピーカーだったのはそのうち午後一番の新入社員研修だけだったし、聞いているだけの会議のときは洗濯物をたたみながら参加していたりもするのだが、それでも他人の話に意識を向け続けるのはそれだけで体力を消耗する行為だから、17時に最後の会議を終えるとどっと疲れがやってきた。

それでもなんだかんだで20時くらいまで仕事をして、買い物がてら散歩に出た。今週は毎日、仕事終わりに恋人と電話している。恋人はかなり追い込まれている様子で、私は無力なのでただ相槌をうつくらいしかできない。電話越しに夏の夜の空気を共有できるのは楽しい。一日中家でパソコンに向かい合っていると何もわからなくなってしまうので、こうして思考と肉体を無理にでも仕事から引き剥がすことには意味があると思う。夜の散歩にはうってつけの季節だ。

惣菜を買って帰ろうかと思っていたけれど、なんとなく気持ちに余裕があったので、自分で作ることにした。今年に入ってからは、まだ片手で数えられるほどしか自炊をしていない。茄子とピーマンの味噌炒めと、胡瓜とカニカマをマヨネーズで和えたものを作った。包丁がさっぱり使えなくなっていて、胡瓜を千切りにしながら悔しくなった。味はまあまあだった。薄味の家庭で育てられたので、世間の味付けはかなり濃く感じる。インターネットに載っているレシピは大体濃い。調味料は減らしたつもりだったけれど、味噌はもっとすくなくても良かったと思った。ピーマンももうすこし多いほうが良かったかもしれない。

夕食のあとは、なんとなく思い立って、TEDを見ていた。ヘザー・マクギーさんの "Racism has a cost for everyone" と、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェさんの "We should all be feminists" のふたつ。英語の聞き取りの力が衰えていないことにひとまず安堵した。人種差別と性差別というテーマの違いはあれど、いずれも差別コストについて言及する内容だった。すなわち差別の解消とは、現在の被差別者だけではなく、特権層のひとびとにとってももたらすものが大きいという話だ。曲がりなりにもフェミニストを自覚する人間からすれば特に目新しい考えではなかったけれど、日頃インターネットでフェミニズム男性差別だなどと宣うひとびとを見ていると、もっときちんと理解されるべき概念だよなあと思う。

一方で、優遇されている人々にメリットがあるから差別をやめましょうという言説に、安易に賛同する気にもなれなかった。こういう、「あなたにとってもメリットがあるんですよ、だから差別に抗っていきませんか」という特権層に対する呼びかけは、たしかに有意義だ(なおのこと、TEDトークを聞きに来るひとびとなんて特権層が多いだろうし)。差別を拒む意識を広く、速く浸透させるには、響く層を広げることが重要だからだ。だけど差別がなくなったとしても、その動機が特権を持つ人々のためというところにあるのだとしたら、構造的には何も変わっていない。それってLGBTは生産性がないから許されない、という言説と、ベクトルこそ違えど同じことだ。差別を受けるに値する人間などいない、というのが差別をやめる理由であるべきなのに。

0時を越えてからは、卒論執筆に付き合ってほしいという元恋人と映像通話をしていた。さぎょいぷと呼ばれるやつである。スカイプではなく、メッセンジャーだったけれど。締め切りは週明けだという。私も仕事をしていたが、途中で飽きて文章を書きはじめた。空が白んできた頃、私が眠気に負けて通話を終えた。5時間近くつないでいたことになるが、ほとんど言葉は交わしていない。卒論が無事に終わった報告を待つことにする。

途中、集中力が切れて筆が止まった元恋人が授業の録画を見始めたので、画面を共有してもらって、保全生態学の授業を一緒に受けた。元恋人のことが心底羨ましいと思った。大学生活の比重の大部分は勉学においていたつもりではあるけれど、それでもこうやってその分野の専門家のレクチャーを受けることのできる立場の恩恵を、学生時代には全然享受しきれていなかったなと思う。つい先日、ツイッターで「大学の授業というのは大人が聴いたらたいてい面白い、18歳だったから面白くなかったのだ」と言っているひとがいたけれど、ほんとうにそのとおりだ。もちろん18歳に面白さが理解できないという文脈ではない。18歳のときも授業は楽しかったし、あの時の私にできるなりに学問に真摯に向き合っていたと思う。でも、親の庇護から離れて、自分自身を社会の構成員として、人間のいち個体として認識するようになって、わかるようになったものはたくさんある。加齢が悪いものじゃないと思うのはこういうところで、学生時代ほどの感性の鋭さは失ってしまった気がするけど、多少は聡明になっただろうと思う。やっぱり大学にはもう一度行きたい。自分で勉強すればいいじゃないか、では補えないものがある。学びとの出会いの場に、もういちど身を置きたい。