6月19日(金)きず

焦燥と自責に駆られて自傷したのが今週の月曜のこと。そこから、よくここまで巻き返したと思う。水曜日からは、よく働いた。がんばった、と自分で言ってもいいと思えるくらいのことはできた。浅い傷が3本、とっくにかさぶたになっている。この調子なら、週が明ける頃には跡形もなくなっているだろう。傷つけようが、雑に扱おうが、私の体はしぶとい。かつてはそのしぶとさが憎かったけれど、今は、まあこれからもこんな感じで付き合っていくんだろうなという諦めがある。良い意味での諦めだ。私はけっして自分の体が嫌いではない。完璧ではないと思うけれど、いれものとしてはそれなりに満足している。でも、それはそれとして、傷つけたいときには傷つけるし、慈しみたいときには慈しむ。それでいいじゃん、と思っている。自傷行為ってすごくおおごとに捉えられがちだけれど(そしてもちろん、軽んじられてはいけないことなのは確かなのだけれど)、すくなくとも私にとっての自傷は、reliefの一種に過ぎない。自分が健全な状態でいられないことに対する葛藤を感じていた時期もあったけれど、今はもうそこに対する興味は薄れた。健全かどうか、ということにこだわることのほうが、よほど不健全だという気がする。

朝9時から12時まで会議が2つ、13時から17時まで会議が3つ。金曜日はほとんど会議漬けだ。昨日の夜に集中して準備したおかげで、夕方の会議は大きな指摘もなく、いい感じに乗り越えた。充実感はあるけれど、実際には、やらないといけないことのリストはほとんど昨日から減っていない。なんでこんなに会議が多いんだろうと思うが、会話の場がないと物事が進まないのも事実だ。17時の会議が終わったあと、15分ほど仮眠をとってからもうひと頑張りしようと思ったのだが、ベッドに身を投じたのが運の尽きで、次に目が覚めたら21時をまわっていた。気持ちはすっかり萎えてしまったので、日曜日の自分に委ねることにして、仕事用のパソコンは潔く閉じた。

22時過ぎ、恋人と電話をしながら近所のスーパーまで惣菜を買いに行った。チョコレートとヨーグルトを除いたら、今日初めての食事である。仕事に身が入ると、食事を含め、生活にまつわるあらゆる行為がおろそかになる。花瓶の水も数日換えていなかったので、気が付いたらふわふわと雲みたいなカビが茎にまとわりついていた。悪いことをした。流しには数日前から洗われていない皿が置きっぱなしだ。明日まとめて片付けることにする。

中途半端に寝てしまったせいで、眠気がやってくる気配はさっぱりなく、Gleeを3話見た。これでシーズン2を走破だ。ネットフリックスと再契約したのは6月7日なので、2週間弱で40話以上を見たことになる。ここ数日は惰性で見ている部分があるのは否めないが、良いシーンがたくさんある。ほんとうは、1話ずつ、短くても感想を残せたらいいなと思う。好きだったシーンやセリフを書き残したりして、もっと大事に鑑賞できたらいいのになと思うが、どうしても先が気になって見進めてしまう。とはいえさすがに食傷気味になってきたので、気分転換にセックス・エデュケーションを見てみた。

セックス・セラピストの母を持つ主人公の少年と、ゲイの友人。恋人とのセックスで勃たなくて、射精したフリをする校長の息子。冒頭から女性の胸がしっかり映ったセックスシーンと、使用済のコンドームが登場する。主人公が校長の息子の相談にのって勃起不全を解決するところに、少女も居合わせ、主人公のセラピストとしての腕を見込んで校内で性の相談ビジネスをはじめることを持ちかける。これだけ書いてみても、じゅうぶんに「過激だ」と思うし、年齢制限がかかっていたとしても驚かない内容だ。実際の「エデュケーション」の内容は2話以降になりそうだけど、面白そうなので、見続けてみることにする。

それにしても、どうして性の話というのは、こうも特別な、タブーとされるものになってしまったのだろう。どうして私はこの内容を見て「過激だ」と思うのだろう。年齢制限がかかっていても驚かない、ということは、性的なコンテンツは一定年齢以下のひとには見せるべきではない、という感覚を私自身が持ち合わせているということだ。大人になってみて、性というのは日常で、生活の一部に過ぎないというのがよくわかった。特別なものでも、難しいものでもないし、恥ずかしいものでもない。自慰はともかく、相手のあることだから、軽々しく口にしていいというのとは違うかもしれないけれど、もっと率直に、それこそ今日食べた食事と同じくらいの感覚で話題にしてもいいことなんじゃないか、と思うことはよくある。三大欲求とよばれるほどに、多くのひとに共通するものなのに、どうしてこんなにも閉じた空間の中でしか扱われないものになってしまったのだろう。どうしてたくさん食べる人はよくて、たくさんセックスをする人はいけないのだろう。どうしてこどもが知るべきではないことなのだろう。妊娠や感染症といった危険があるのは事実だけど、それは知るべきではない理由にはならない。むしろ知るべきだ。バランスの良い食事をとらないと病気になりますと、コンドームをしないと性病感染や妊娠の危険性がありますの違いが、私にはわからない。何もreasonableじゃない。間違った性の知識が流布したり、性犯罪もなくならないのは、そういうオープンな土壌がないことを逆手にとるひとがいるからだ。性教育をするとみだらなことをするこどもが増える、だとかいう馬鹿な大人がいるらしいけれど、その意見に決定的に欠けているのは、性教育をしなくともこどもはみだらなことをするということ(そもそもみだらなことがいけないわけではない)、それからこどもはいつか大人になるということだ。あやまちの可能性をすこしでも減らすのが教育の存在意義であるべきなのに、それをわかっていない(わかろうとしない)人間がすくなからずいることにうんざりする。

クィア・アイだとか、RPDRだとかも見ていることを考えると、この2週間でネットフリックスに捧げた時間は40時間近い。でも、こうして琴線に触れるようなコンテンツに接し続けることは、まちがいなく必要で、価値のある行為だと信じている。多少睡眠を削ってでも、だ。ただ、仕事はぎりぎり回せている(ということにしてもいいだろう)にしても、本を読んだり、文章を書いたりといった時間を犠牲にしてしまっているのは確かなので、もうすこしバランス感覚は養いたい。

釈然としない思いを抱えながらも、クィア・アイを見るのをやめられない。自分の中のどんな要素が、この番組に対してここまでの拒絶感を覚えるのかに興味がある。言語化は少しずつできそうな気がしているので、仕事が落ち着いたらもうすこし掘り下げてみたい。