6月20日(土)薄味を愛す

中途半端な時間に寝てしまったので、生活リズムを保つべくいっそ夜を明かそうと決意して、ひと晩じゅうドラマを見ていた。8時すぎになって、流しにためていた皿とコップを洗い、花瓶の枯れかけた草と水を捨て、洗濯機を回して掃除機をかけた。11時になるころにはあらかた家事を終えていた。午前中をちゃんと使えるというのはこういう感じなんだな、と思い出した。そうしているうちに眠気に襲われたので、昼寝という位置づけで眠ることにした。1,2時間のつもりだったけれど(こういう目論見はたいていうまくいかない)、けっきょく目を覚ましたのは15時だった。思惑どおりとはいかなかったにせよ、気持ちは軽かった。だって、いつもなら家事をはじめる時間に、もうやることがないのだ!

気分が軽いと、体も軽くなる。ちゃんと着替えて、化粧をして、近所のカフェに行った。本を読もうと思っていたのだけど、コーヒーが手元にやってきた頃に恋人から電話がかかってきたので、1時間くらい会話した。鳩にフランスパンをあげる動画が面白いこととか、自転車のパンク修理のこととか(電話の向こうの恋人はママチャリのパンク修理をしているらしかった)を話した。それだけを話していたわけはないのだが、はやくも記憶がおぼつかない。鳩とフランスパンの話だって、パンク修理の話だって、こうして書き留めておかなければ明日にも忘れているかもしれないのだ。そういう他愛のない話題だけで1時間が過ぎゆくというのは、思い返すと不思議である。

つまらない授業を受けたとき、琴線にふれない小説を読んだとき、ただ水っぽいだけの西瓜を食べたときのような気分になることはたしかにある。反対に、好奇心をくすぐられるような授業や、がつんと殴られたような衝撃をもたらす小説に出会ったとき、それらは充実した、濃度の高いものだったと感じる。人間関係における濃さ、というのも、その延長線上にある。つるんでいる仲間のことを「濃い」という表現で好意的に形容していた青い過去を持つひとは少なくないだろう。今となっては他者との関係性を濃いだとか薄いだとかいうように評価するのはあまり品のある行為だと思わないけれど、高校や大学初期の頃の私も、たしかにそうやって濃い関係とやらを礼賛するうちのひとりだった。でも、それって、平たくいえば刺激をありがたがっているだけじゃないかと思う。すなわち、即時的な欲望が満たされたかどうかという尺度をあらわす言葉として、薄いとか濃いとかをつかうのだ。刺激を求めるのは悪いことじゃないけど、こと人間どうしの関係においてそれを求めるのは、友人とか恋人とかいう関係性にあやかって相手を消費する行為に過ぎないように思える。

もちろん、恋人といるのは楽しい。たとえば、と例示をしようとするときに真っ先に浮かぶのは旅行やデートの光景だ。でも、そういう燦然と記憶に残るイベントのあいまには、もっと薄くて、透明な、他愛のない会話と時間が積み重なっている。そういう会話はたいてい目的も意味も持たなくて、そこだけを切り取ったら、濃密さを正義とするような人々からしたら退屈なものに映るだろうと思う。でも、他者との関係を維持するというのは、たぶんすごく地味な行為なのだ。薄い層を雲母のように重ねて結晶化させてゆくことなのだ。刹那的な楽しさというよりは、その結晶を育てることそのものが楽しいから、恋人と一緒にいたいと思うのかもしれないなあ、などと考えていた。

風を浴びつつ読書と洒落込むつもりだったのだが、テラス席は思いのほか風が強く、梅雨とは思えぬ湿度の低さもあいまって、カーディガンを羽織っても肌寒いほどだった。けっきょく、恋人と通話を終えてからは別の店に移動した。本をゆっくり読みたいときにしか来ないカフェである。ほとんどが同じように本を読みに来ている客ばかりなので、席が埋まっているときでも店内は静かで、それが気に入っている。ブレンドコーヒーと無花果のタルトを供に、ずっと楽しみにしていた歌集に読みふけった。そのあとに中編の小説をひとつ読み終えたところで21時になった。ちょうど店を出たタイミングで恋人からふたたび電話がかかってきて、またとりとめもない会話をした。

帰宅してからはさすがにもうドラマを見る気にはならず、かといって仕事をする気にもなれなかったので、読み終えたばかりの歌集から、好きな歌を選んだりしていた。そのあとは携帯で電子書籍を読んでいた。どうしたって紙の本よりも読みにくいのだけど、とくに新書みたいなものは、こういう方がたしかに便利かもしれない。専用の端末が欲しくなる気持ちがちょっとわかってしまった。今年の残り半分で読む頻度が落ちなかったら、購入を検討してみてもいいかもしれない。

ずっとドラマばかりだったので、久しぶりにまとまった量の活字を摂取したら調子が整ったような気がする。文句のつけようのない休日。