7月9日(木)だれてるよね

8時半起床。韓国語を少しやって、9時から仕事。早々に上司から電話がかかってきた。仕事の話をしたあと、最近ちょっとだれてるよね、と言われた。自分がだれていないと思えたことなんて一瞬たりともないので、それはそうだろうと思う一方、第三者からまっすぐ言われるとそれはそれでけっこうこたえて、電話口で泣いてしまった。悔しい。事実を指摘されて泣くなんてどうかしている。火曜日に自分の不甲斐なさを嫌というほど自覚していただけに、重かった。

自分に厳しすぎる、という評価をもらうことが多いからこそ、自分が自分のことを見るほどには、周りは批判的ではないという甘えがずっとあった。周りは好意的に評価してくれているのだから、まだいいじゃないかという甘え。だれてるよね、の一言はそんな甘い幻想を打ち砕くにはじゅうぶんだった。他人から見てもそうなのか、というのが、思った以上にショックで、日中はそのことが頭から離れなかった。それまで散々自分で自分のことをこきおろしてきたのは棚に上げて、わかりきったことにショックを受けている自分が何よりも悔しかった。

ひとしきりぐるぐると水底を漂って、思い切って夕方、再度上司に連絡をとった。自覚はしてるつもりだけど自分で見えていない部分で、どこがだれているように映るのか知りたいと頼み込むと、上司は快く応じてくれた。2度聞いても、きついものはきつかった。褒められて育ってきたおかげで肥大した自尊心には、正当な批判が刃みたいだった。当然だけど、人格否定をされているわけじゃない。仕事をするうえで私が改善していくべき部分についての建設的なコメントだ。泣きたくないのに、泣くようなものでもないのに、嗚咽が抑えられなくて、そのことにまた腹がたった。

でも、これを欲していたんだなあと思った。率直な言葉を聞きながら安心していた。私はもっと否定されないといけなかった。誰も否定してくれないから、自分でこきおろしてバランスをとっていたのかもしれない。もっとも、たぶんそれだって事実ではなくて、ほんとうはもっと、私に対する批判をしてくれるひともいたはずなのだ。私が耳を傾けなかっただけで。

自らの直すべきところを知りたがっている、という積極的な姿勢を見せることで、前向きな人間であるという評価をもらおうという打算的な気持ちが動機にあったことは間違いない。事実、こうやって聞いてくるところを評価している、といわれて、あまりに思惑どおりのコメントだったから心が痛んだ。ごめんなさい、パフォーマンスなんです。クズはどこまでいってもクズなんです。こういう姿勢ばっかり見せたって、すぐにまた失望させるだけなのに。

でも、指摘してもらったことを直したいという気持ちは嘘じゃない。今よりも多少マシな人間になれるなら、と思う。もうすこし自分のそういう素直な部分を認めてやれるようにならないといけないんだろうとわかっている。打算にまみれた罪深い人間であるという自己像は、もうとっくに慰めになりやしないのに。もっと自分とうまく付き合わなきゃだめだよ、とも言われた。そのとおりだと思う。自分とうまく付き合うって何?

そのあと別れた好きな男と電話をした。電話の向こうで小学生のように別れたくないと駄々をこねていて、私は別れたいのだ、と駄々をこねて、最後は笑って終わった。最後に会った時、きれいに別れを告げられなかったのがちょっと気がかりだったので、ようやく一区切りがついたような気がしてほっとした。数ヶ月したら食事に行こう、という約束をした。

電話のあとはぐったりして、そのまま1時間くらい微睡んでいた。それからドラマを見つつフィットネスバイクに乗り、筋トレをしてストレッチをして、シャワーを浴びた。筋トレをすると気分がすこし晴れる。夕食は、萎びたモロヘイヤを茹でて刻んで、納豆といっしょにうどんに載せて食べた。それと作り置きの茄子の煮浸しの残り。

自分を責める快感から抜け出せる日は来るんだろうか。