7月25日(土)ガラスの向こう側

アラームをかけ忘れて、9時頃にいちど目を覚ます。ああもう読書会は間に合わなかったな、と思ったのを覚えている。次に目が覚めたのは11時20分。元恋人と11時半にランチの約束をしていたのに、久しぶりに派手な寝坊をした。

けっきょく店についたのは午後1時前だった。元恋人が8年間アルバイトとして勤めていたイタリアンレストランが、今週末で閉店するというので、誘われたのである。もっとも、当の本人は例のごとく酔っ払っていたらしく、誘った記憶はないらしい。ほんとうは昨日の夜に行くつもりだったが、予約の電話をしたときにはすでに満席だった。結果的に今日も昼食としては遅めの時間になってしまったけれど、それでも店内は埋まっていたし、近所に住んでいるとおぼしき人々が、店主に労いの言葉をかけに時折立ち寄っている姿も見られて、愛されてきた店なのだろうというのが知れた。交際していたころに一度来たきりなので、私自身は強い思い入れがあるというわけではないけれど、すくなくとも元恋人には大事な場所なのだろうから、なんとも歯がゆい気持ちになってしまった。何せ15年ほどの営業のうち、元恋人は半分を共にしているのだ。立ち入ったことは聞いていないけれど、昨今のことがなければ、終わりはもうすこし遠いことだったかもしれない、などと邪推をしてしまって、すこし憂鬱だ。魚介のレモンバターソテーは美味しかった。

ちょうど店についた頃に降り出した雨は、食べ終わる段になってさらに強まり、地面に叩きつけられた雨粒の王冠の丈がどんどん高くなるのをふたりで面白がって眺めていた。映画の話とか、大学時代の友人たちの近況だとかを話していたけど、なんというか、ずいぶんとあたりさわりのない関係になってしまったな、と思った。冷淡な言い方をするなら、もう私はこのひとを必要としていないんだな、という感覚をはっきりと自覚してしまって、それが悲しい。いちばん雨脚が強まったころに彼が煙草を吸いに外に出ていって、ガラスの向こうから「特等席。足が濡れるけど」とメッセージが送られてきて、一本もらいに行こうかなとも思ったけれど、なぜか躊躇ってしまった。それが一番の変化だった。交際を終えてから3年とすこし、恋愛感情みたいなものはとっくになくなっている(あるいは、はじめから違ったような気もする)けれど、お互いの底にあるさみしさみたいなものをなんとなく共有できていたから、ずっと特別だった。いや、たぶんこれからも特別ではあり続けるんだろうけれど、もう彼は私の内側のひとではなくなってしまった。ガラスの向こう側のひとになってしまった。彼のかかえる寂しさを、言葉を介さずに理解することは、私にはもうできないだろうし、彼になら私の感じている諸々をわかってもらえるという安心感も失ってしまった。もしかしたら唯一くらいの相手だったのに。きっと私が変わったんだろうと思う。今でもさみしいけれど、昔みたいに、共鳴する相手を求めてやまない、ブラックホールみたいなさみしさじゃなくなってしまった。私が、おとなになったんだろう。私はおとなになったことを概ね好意的に感じているけれど、こういう、他者を徹底的に心の中から追い出して安らぎを得て、それでなんとかできるようになってしまったことは果たして良いことなんだろうかとたまに思う。まだ他者を理解しようとして、理解されようとしてもがいていた頃のほうが、むしろ健全だったんじゃないかというような気もする。今の私は諦めと拒絶で構成されている。元恋人でさえその拒絶の対象になってしまったことが、途方もなく悲しい。

3時すぎに別れたあとは、引っ越してきてから初めて近所の図書館に行って、利用者登録をした。今月の目標に含め忘れたので、来月の目標にしようかと思っていたのだけど、その必要はなくなってしまった。梨木香歩『f植物園の巣穴』、平野啓一郎『空白を満たしなさい』上下巻、ホ・ヨンセンの詩集『海女たち』を借りた。『海女たち』は、すこし前にツイッターで見かけて気になっていた作品だったのだが、偶然、図書館の入り口のいちばん目立つところに、新着図書として掲示されていて、視線がまっすぐ引き寄せられた。不思議な体験だった。本と目が合った、と思った。

ひいきにしているカフェに入り、そこで1時間半ほど本を読みに耽って、梨木香歩を読み終えた。雨の匂いのする本だった。『海女たち』を続けて読もうとしたけれど、序章の詩で泣いてしまって、すこし落ちつけようと思って、そのままカフェをあとにした。

帰宅して文章を書いていたら、遠くのほうで花火の音がした。テレビで中継しているようだったので点けてみたが、芸人がうるさかったのと、画面越しに見てもとくに楽しくもなくて、すぐ消してしまった。去年好きな男と浴衣を着て行った花火大会とか、むかし、夜行バスと鈍行列車を乗り継いで行った大曲の花火大会とかを思い出した。

好きな男と秋田に行けたらさぞ楽しいだろうと思ってから、いつまでこうやってはるか先のことに希望を託すんだろうなと思った。ちゃんとお互いをいつくしむことができるようになるまで、という期限を設けてはみたけれど、それがいつになるかも、そもそもそんな日がほんとうに来るのかも、わからないのである。そういうものに拠り所を見出すのが危うい行為であることも、それがけっして自分を幸せにするものではないことも、わかっている。一緒にやりたいことリストはいまだに更新をやめられない。別名を、好きな男以外とやりたくないことリストともいう。もっとも、リストに書かなくても、ぜんぶがそんな感じだ。食事も、睡眠も、思考も、呼吸も、ぜんぶ、好きな男と以外はやりたくない。自分の半身を手放して、息をすることはたしかに楽になった。しかしそうして迎えたこの世界の空気は、緩慢ではあるけれど死に至らしめる毒であるようにも思える。呼吸困難に戻りたくない、でも死にたくもない。めずらしく本を読むことが捗っているのは、読書だけがひとりでしか為しえない行為だからなのかもしれない。すくなくとも、対症療法としては有効であることはたしかだ。でもそれも、仕事がまた忙しくなればつかえない。この毒に、適応できるだろうか。適応したいのだろうか。