11月8日(日)

10時に起きる。昨日あらかた終わらせたから、洗濯機を回してしまえば、今週の家事は終わりだ。

ひととおり気になっていた作品を観てしまって、自分の中で一区切りついた感覚がある。何を観ようかな、と手持ち無沙汰な感じ。ほんとうはこういうとき、勉強すればいいんだろうと思う。簿記、韓国語、英語、生物学、フェミニズム、仕事で使える資格。やりたいことも、やらないといけないことも、たくさんある。でも、書きたいという気持ちが優先順位の一番うえにある状態で、ほかのことに熱量を割けるほど器用な人間ではない。かといって、書こうと思ってすらすら書けるわけでもない。ほとんど焦燥感と言ってもいい衝動に駆られて、手当り次第に目に留まった作品を観ているのは、すこしでも自分の琴線に触れる何かを求めているからだ。そういう起爆剤の力を借りれば、書けるようになるんじゃないかと期待して、刺さるものを探している。そうやって『ハイキュー‼』に出会えたりもしているわけで、だからすごく意味のあることだと思う一方で、なんかすこし、惨めだ。

「作品の感想を自分で考える時代は終わった」という匿名の文章を読んだ。概ね、感じていることは近いと思った。すこしSNSを眺めていれば、感情や思考を代弁してくれる人がいくらでもいる。いいねとリツイートでそれに乗っかるだけで、わざわざ自分で手間をかけて言語化しなくてもすむ。楽だ。そういう状態は、このひとが言うところの"感情の先導者"が指定する感情を「そういうものなんだな」と自分のものとして取り込む、という状態と表裏一体である。そういう話だ。わざわざこうして要約するのは、この文章に代弁されたままなのが不愉快だから。私自身も、とくに政治とフェミニズムの話題については、かなり他者の思考にフリーライドしている自覚がある。そこに私はいるのか?とずっと思っている。思うけど、そのほうが楽だから流れてしまう(リツイートだけを延々とするアカウントが気味悪いのは、そのアカウントの向こうにたしかに生きているはずの人の輪郭がまったく見えないからだろう)。この文章の著者は「自分を捨て、他人の感情というスープと同質化する」ことを怖いとは思わない、と結んでいるけれど、私は怖い。自分の感情が、思考が、他者のものでしかないかもしれないことがすごく怖い。ずっとそのことに怯えている。だから書く。自分の中に一度取り込んで、自分の言語で翻訳した感情と思考しか信用したくない。

前の晩から、久しぶりに二次創作を書きはじめた。やっぱり自分の文章が好きだなと思う。でも、没頭できない。形にできなかったらどうしようという恐怖とか、既存の作品のキャラクターを借りてしか創作できないことの後ろめたさとか、どうせ私が書かなくたって良い作品はたくさんあるのにという卑屈さとか、そういうものがふわんふわんと海月みたいに思考を遮る。けっきょく、ここが私の創造性の限界なんだなと考えてしまうたびに、筆が止まる。5時間近く自分の文章とにらめっこしていたけど、生んだのはたった2000字、それも切れ端ばかりだった。この惨めさと向き合わない限り、書けるようにはならない。

17時半、家を出る。日が落ちるのが早くなっていることに驚く。両親と待ち合わせて、スペインバルで食事をした。ワインとシェリー酒をしこたま飲んで、ほどよく酔って帰宅した。親との関係は無難だ。親と子の間にはたくさんの糸が通っていて、たぶんそのうち、感情の糸はとっくに切れた。今つながっているのは、戸籍と社会の糸、美味しいものと酒が好きな者同士の糸、家族愛というよりは他者に対する愛としての糸。そんなところ。つまらないけど、べつに楽しくないわけではない。料理は抜群に美味しかった。