たましいの輝き

数日前に27になり、そのことについて思いを巡らせる間もなく、年が明けていた。27という数字にも、2020年が終わったことにも、これといって感慨があるわけではないのだけれど、こういうときでもなければ立ち止まってかえりみることもないだろう。世界はとつぜん様変わりした。これまでの戦い方が全然通用しなくなった。意図せずに開放してしまったゲームのステージで、こんなのありかよ!と悪態をつきながらがむしゃらにコントローラーを叩いて、唐突に立ちはだかる障害物をなんとか避ける。そんなふうに乗り切った年だったように思う。体ばかりが先行して、精神はずるずると引きずられて擦り傷だらけだ。でも、そうやってクリアしたところで、元の慣れ親しんだステージに戻れることはしばらくない。待ち受けているのは身を隠すところもない荒廃した世界だ。2ラウンド目はもうすこし器用に乗り切れるように、今の自分の立ち位置をたしかめたくて、文章にすることを試みている。

気づけば、会社員になってから丸三年が経過している。コンサートもない、旅行も行けない日々にあってはほとんど必然だったのかもしれないけれど、それにしても、よく働いた年だった。はじめてチームリーダーとして、複数人を率いる立場になったのが年明けすぐのことだ。当時は日々をこなすことに精一杯だったけれど、振り返ってみれば任せられる仕事の幅は着実に増えていて、それなりに力はついたと思える。朝起きて、きまった時間にきまった場所に行って、数時間を過ごすだけで心底疲労していた三年前と比べたら、今が嘘のようだ。12月にはとうとう昇格も決まった。嬉しさや達成感がないと言ったら嘘になる。

それでも、その嬉しさをはるかに上回って、しんどかった。3月末には完全に在宅勤務に切り替わったから、オフィスには8ヶ月近く足を踏み入れない日々が続いた。はじめこそ喜んだけれど、振り向けばすぐに布団が目に入り、他者の視線がいっさい存在しない空間で労働をするというのは、思っていたよりずっとつらかった。いつでも仕事できてしまって、いつでもサボれてしまうような環境で、まともな生活ができるはずがない。とくに新しいプロジェクトがはじまって、上司も忙しくてあまり頼れない状況になった9月以降は、ぼろぼろだった。仕事をする時間とそれ以外の時間の境目が曖昧になり、睡眠も食事も好きなものに費やす時間も、仕事で削り取られたものを補うための生命維持の活動に成り下がった。それにしたって差し引きでいえばマイナスで、そんなふうにしか愛するものと向き合えないこの生活には、心底、心底嫌気が差している。

死にたいとは思っていない。死ぬことばかり考えていた学生時代から考えれば、ずいぶんと「まっとうな」社会生活を送れるようになったものだ。生きるのがつらい、と思うことは、ほとんどなくなった。そして大抵の場合、それは祝福されるべきこととして扱われる。けれども安寧と引き換えに、私はたましいの輝きを失った。こんなふうに生きたかったわけじゃないという思いは、いつしか、こういうふうに生きるしかないのだという諦念にすり替わった。

何度もその諦念に飲み込まれながら、それでも抗おうとしたのが2020年だったのかもしれないと思う。あるいは、たましいの輝きを取り戻す戦いの元年だった、とも言える。

三島由紀夫梶井基次郎の作品を読むとき、私がそうして彼らの文章を読むことができるのは、彼らが書く人間だったからであるということを、いつも不思議に思う。同じ時代には書かない人間がもっとたくさん生きていたであろうこと、そしてそのひとりひとりが何を考えて生きていたかを私が知る術はないことを考えると、足元が崩れていくような感じがする。後世に自分の名を残したいという欲求があるということではない。ただ、自分が生きていたことを、自分が死んだあとに誰も証明できないことが怖いのである。インターネットのある現代では、生きた痕跡が残らない人のほうがすくないだろうけれど、自分が代替可能なその他大勢であることに対する恐怖という意味では同じことだ。

たとえば床に落ちた髪の毛とか、惣菜ばかり食べているせいですぐにいっぱいになるビニールゴミの袋とか、私の名前が宛先になったメールが届くこととか、そういう事実から帰納的に自分が存在するらしいということはわかる。でも、それらは「私は生きている」という実感をもたらしてはくれない。自分のものだと思っている感情は、「こう感じるのが最適解だ」という演算結果に過ぎないのではないか。私の発言は、私の思考から導出されたものではなく、他者の思考を言い換えただけの受け売りの寄せ集めに過ぎないのではないか。インプットされる刺激を、一定のアルゴリズムにしたがって打ち返して人間っぽく振る舞っているだけの、ただの容れ物なんじゃないか。容れ物であるということは、代替可能であるということだ。容れ物をすげ替えても誰にも気づかれない。そういう浮遊感にずっと怯えてきた。

でも、書いているときだけは、私は容れ物ではないと思えた。無論、私の語彙や思考はこれまで自分が接してきた外界から培われたものではあるけれど、言葉におこすというのは、けっして単純な変換作業ではない。私の目に映る世界を解釈し、私の存在を織り込んだ世界を言語というツールで再構成すること、それが書くという行為だ。

だからこそ、日に日に書く力が衰えていくことに、ずっと焦燥感をおぼえていた。抗おうとすればするほど、思うように書けないことを思い知って惨めになるだけだった。もういっそ書く人間だった自分は過去にしてしまおうかと考えたことも幾度もある。

それでも、諦めきれなかった。一次創作でも、同人活動でも、日記でも、中身はなんだっていい。惨めでも無様でも下手くそでも論理だっていなくても独創的でなくてもいい。私の書く文章は私にしか書けなくて、そこに私のたましいがある。文章を書くことは、私自身に代替不可能な私の存在を証明するための手段なのだ。

生きたいから書きたい。さんざん堂々巡りしても、やっぱり戻ってくるのはいつもそこだったし、その火を灯し続けることが、私が私でいるための必要条件なんだなというのを再確認した。たましいの輝きを取り戻す戦いの一歩目。

文脈からは逸れるけれど、好きな男と別れなければ、この戦いははじめられなかった。彼との日々は、つきまとう生の実感の不在を忘れさせてくれるくらいには激烈に眩しかったけれど、それを望むのは、まやかしのいのちと引き換えに私の誇りを殺してゆくことだった。あるいは、まっすぐな恋情をぶつけられるあの恋愛は、自分が代替不可能な存在であるという夢を見せてくれるものだったのかもしれない。信頼すべき相手ではないことも、愛だと信じたいものがしょせん砂上に築いた紛いものにすぎないこともよくわかっていた。惹かれたことも、一緒にいたあいだに知った嬉しさや愛しさもまるきり虚構だったとは思わないけれど、死んだほうがましだとさえ思わせるほどに尊厳を踏みにじる関係の何が愛だったんだろう、と今は思う。最初に交際を解消したのが初夏、結果的に関係をきちんと清算できたのはそこから半年たったつい先日のことで、なんだかんだ、丸一年かかってしまったけれど、ようやくスタートラインに立てた。もう振り返って慈しむこともないだろう。

恋を断ち切る覚悟がかたまった下半期は、他者に依拠しない自分自身の輪郭を見極めることに意識を向けた。書くことに注力できるような状態ではなかったから、とにかく吸収するところからはじめようと思い立って、ここ数年の自分とは比較にならないほど大量の映像作品や書籍を摂取した。勉強したいという感覚にちかい。世界との接点を増やしたいのだ。自分が何を好きで、なぜ好きなのかを掘り下げることは、私という存在の足場をより強固にするために必要なことだと思った。好きなものを好きでいることは、この数年私の生き方の根幹を成すものだけど、2020年の後半はそれをよりストイックな形というか、自分の深いところに落としてできたように思う。

アニメ、ドラマ、本、漫画、ゲームと、あらゆる媒体に多くの時間を費やしてわかったのは、人間のたましいが生み出すきらめきこそ、私が何よりも愛するものなんだということである。何も初めて至った結論ではなくて、あらためてここに立ち返ってきた感じだ。そしてこの幾度めかの気づきは、同時に、今の仕事に対する嫌悪感をいよいよ無視できないものにしつつある。時間とエネルギーを暴力的に奪われることに対する憎しみももちろんあるが、それ以上に、生産性を正義として金儲けをする場所に所属していることへの違和感が強い。役に立つかどうかですべての価値が決まる世界では、人間さえも道具にすぎない。ゆえに感情は忌避され、機械のように動けることこそ望ましいとされる、そんな世界を私は唾棄したい。人間が人間であることだけで祝福されること、そういう世界をこそ愛していたい。くわえて『ハイキュー!!』を読んでからは、かつて捨てたはずの教員という道を諦めきれていない自分がいることにも気付かされていて、このあたりとどう折り合いをつけるかが、今年、あるいは今後数年の自分の課題になってゆくんだろうと思っている。

最後に、2020年に出会った中で深々と突き刺さった作品を三つ挙げておく。『ハイキュー!!』と『Free!』、そして『IDOLiSH7』だ。いずれにも共通するのは、徹底した人間賛歌の物語であるということである。

ハイキュー!!』は、弱さの受容と意志の物語であり、肯定と見守りの物語であり、真摯と誠実の物語だった。作中交わされる会話のひとつひとつが、球のやりとりのように丁寧に拾われる優しい作品である。誰もがゆるぎない強さを持っていて、その強さの形はひとりひとり異なること。同時に誰もが弱さを持ち合わせていること。それらが丁寧に描かれていることに救いを見た。日向翔陽にはどれほど光をもらったかわからない。

Free!』はタイトルどおり、自由の物語だ。心の中で触れないようにしているやわらかい部分にじくじくと刺さる、目をそむけたくなる衝動と愛おしさとでないまぜになる作品。ともすれば過剰なほどの美しさが、少年たちのじれったさを演出している。桜の花弁が一面に散ったプールと、松岡凛のオーストラリアでの朝の生活を描写したシーンは、きっとこの先、生きてゆくのが嫌になったときにきまって思い出すことになるだろうと思う。

IDOLiSH7』は、誇りと尊厳と理不尽の物語であり、友人の言葉を借りるならば家父長制の破壊と家族の再構築の物語である。この数年、現実の世界のアイドルオタクをやってきて、どうしたって私たちは消費する側でしかいられなくて、それは彼らを人間としてではなく資本主義の駒として扱うことに他ならないのではないかという罪悪感を持ち続けてきたけれど、向こう側の彼らもちゃんと意思を持って動いている人間なのだというあたりまえのことを教えられたのがこのゲームだった。消費の対象だとみなして、人間扱いしていなかったのは私のほうじゃないか、と目のさめるような思いだった。

現実の人間が相手でなくなっただけで、虚構の世界の他者に生かされていることに代わりはないのかもしれない。安全地帯へ逃避している自覚はある。向こう側の彼らと私が双方向の人間関係を築くことはないのだから、楽に決まっている。自分の琴線を揺らす存在を求めてしまう自分本位さからはあいかわらず抜け出せていない。まあ、それならそれでいいか、とも思う。生身の人間と向き合うには、このところ大きな失敗をしすぎたし、リハビリの期間があってもいい。

この先もっといろんな物語を知ってゆくにつれ、まだ単一の点としてしか咀嚼できていないコンテンツが線でつながって、地図ができて、自分の立ち位置が見えてくるような気がしている。そしてそれを紐解くことは、きっと自分がこの先どう生きていきたいかの道しるべにもなるであろうことを期待している。

たましいの輝きを取り戻すための戦いはまだはじまったばかりだ。たくさん読んで、たくさん見て、たくさん書く。もっとまばゆくなる。