1月19日(火)きらいだ

笑顔が笑顔の形にならなくなっている。笑い方がわからない。会議中、イヤホンを片耳外しながらははは、と愛想笑いした自分の声がぞっとするほど乾いていて背筋が冷えた。ぜんぜん面白くも楽しくもないのに、頬の筋肉だけ笑みの形をつくったまま固まっていて、自分ってどんな顔してたんだっけとしばらく呆然とした。

仕事、きらいだ。だいっきらいだ。

日記を書きはじめたのが午前零時四十二分。会議が終わったのはわずか三十分ほど前のこと。7時間後には次の会議が待っている。今朝パソコンを開いて仕事をはじめたのは9時過ぎ、13時から21時までほぼ休みなしで会議で、夕飯を挟んで23時からもうひとつ。そのうちのどれひとつとして、状況が前に進んだ!と思える会議がない。誰かが喋って、それに返答して、ふわっと終わる。 私は不幸にも人の顔色や声音を読み解くのが得意な方だし、だから他者の求めているものがわかってしまう。わかってしまうから、相手が求めるものを提供する役回りを引き受ける羽目になる。じゃあ、これよろしく。って引き受けるつもりのなかったタスクを、あ、わかりました。とか言ってしまって自分の甘さにうんざりする。それでいて会議にぜんぶ時間をとられるから、やることは永遠に終わらない。増える一方だ。借金の利息を返して一日が終わってゆくだけの自転車操業なんかもう嫌だ。ほんとうに嫌だ。ぜんぶ投げ出したい。死にたい。

本当は死にたくないのに、そういうふうに思わされていることが心底不愉快だ。生活を踏みにじられて、感情も意思も捻じ曲げられて、私という人間が軽んじられることが悲しくて悔しくて、それをはねのける強さがないことが一番悔しい。何がたましいの輝きを取り戻す、だ。錆びついて崩れてしまいそうだ。

こういう忙しさはなにも初めてじゃないけれど、どこかで糸を千切ってしまったようで、一気にいろんなことが耐えられなくなった。コンサルティングなんて不誠実だ。見栄えの良い机上の空論でクライアントをおだてて、蓋を開けてみたら理想を現実にできる人なんかいやしないくせに。クライアントの「こんなはずじゃなかった」という失望の色を感じながら働き続けることが苦しい。それでも一度こちらが掲げた題目を「やっぱり嘘でした」というわけにもいかないから、安心してもらうために調子のいいことを言わなくちゃならない。詐欺をはたらいているような気分になる。最悪。自分が力不足だから余計にそう思うのだろうというのはわかっている。もっと経験と知識があって、理想を現実に引き寄せるだけの実力があれば、状況はもうすこし違ったはずだ。だけど現実はそうじゃない。自分のやっていることが価値のあるものだと思えないのが、こんなにもしんどいだなんて思わなかった。

コンサルってなんですかね。この仕事に意味があるのかわかんなくなっちゃいました。好きな男あらため上司に思わずそうこぼしたら、話を聞いてくれたあと、しばらくして、この仕事を否定されるようなことを言われるのはすこし嫌な気分だったって言われた。彼の仕事ぶりが誠実なのは、誰よりも知っているつもりだ。そういう人だからついていきたいと思ったし、今でも憧れているし、信頼しているし、好きになった。そういう人の過去も、今やっていることも、踏みにじりたいわけじゃない。私の抱える違和感を否定せずにいながらも、私の言葉に痛みをおぼえたことを正直に伝えてくれたことはありがたいと思ったし、申し訳なかった。それでも、私は、この仕事を愛せない。愛したくない。

仕事をしている時の自分が嫌いだ。仕事のできないおじさんに向かってミュートにした会議画面越しにふざけんじゃねえよてめえの仕事だろうがって悪態をついている時の自分が、口先三寸でクライアントを安心させるような甘言を吐く自分が、大嫌いだ。そんなもののうえに成り立つ自分を価値あるものだと評価されたって嬉しくない。

発達障害と診断される人の数が多いのは、それだけ社会の求める「ふつう」の基準が厳しすぎるということではないか、という主張をインターネットで目にした。「ふつうの人は死にたいと思わないらしい」という、これまたどこかで見かけた言葉を鵜呑みにするなら、学生時代の後半のほとんどを死にたさに駆られて過ごした私はけっして「ふつう」ではないことになるのだけど、すくなくとも、人より多少察しが良くて頭の回転もそう悪くない私は、この会社ではそこそこ重宝される。ありがたいと思わなくちゃいけないのかもしれないけど、でも、そうやって相対的に私が高い評価を受けることで、誰かを生きづらくしているかもしれないことが嫌だ。私自身もその評価に苦しめられているし、だれも幸せにならない。この価値基準を内面化したくない。

会社選びを誤ったとは思っていない。差別発言をした同僚が即刻離任させられるところだ。同性パートナーは当然のように異性間の婚姻と同等の扱いだし、女性役員比率は国の平均よりもずっと高いし、上司にも同僚にも恵まれている。給料も悪くない。早々に内定が決まって、就活を続けるのが面倒だったからというだけじゃなくて、自分の中でゆずれないものを考えたときに、人権と倫理を重んじ、差別に抗う姿勢を明確に打ち出しているということのほうが大事だと思ったから選んだ会社だ。起きている時間の半分以上を過ごす場所だから、そういうところで不愉快になりたくはなかった。3年勤めた今でも、その判断が間違っていたとは思っていない。リベラルのフェミニストを自認する人間が働く営利団体としては、文句ない待遇だと思う。

それでも、しょせん、金を儲けることが正義の世界だ。人間を生産性で評価することを正義とする世界だ。ひとたび利益を優先したが最後、人間は金儲けのための道具に成り下がる。人間は人間であるだけで祝福されるべき、というのが私の信念だから、もうそこが食い違っている。こんなにも相容れない、尊重したくないもののために9時から0時まで働かなくちゃならないことも、それでもなお仕事をしていない時間に罪の意識をおぼえなくちゃならないことも、うんざりだ。命をつなぎとめるためだけに愛する作品を消費しなくちゃならないような生活はまっぴらだ。

死にたい、と思う。でもそれはかつての死にたさとは違う。数年前の私の死にたさは、自分の存在を望まないことに起因するものだった。ほかでもない私自身が死を選択したがっていた。でも今は違う。私はほんとうは死にたくない。それなのに仕事が私をその思考に追いやる。殺されたくない。自ら選ぶ死じゃなくて、選ばされた死を私は欲さない。死にたくない。仕事が大嫌いだ。