1月25日(月)星の一生

8時半に起きて、最低限連絡しないといけない相手にだけ休むことを伝えて、もう一度眠った。次に目が覚めたのは正午だったけれど、けっきょくそのまま起き上がれなくて、まどろみと覚醒をいったりきたりしながら20時まで布団の上にいた。トイレすら行っていない。横になっている間は突発的な自殺衝動に襲われることはなくて、ひたすら携帯を眺めていた。そうしている分にはそこまでつらくないような気がして、やっぱりこれは単なるわがままなのではないか?いつもの逃避癖ではないか?と思う。それでいて、今度こそ布団から出ようと思って体を起こすと、途端にやらなくちゃいけないことが頭に押し寄せてきて、呼吸が浅くなる、というのを何度か繰り返した。死にたいって何度か声に出して、誰もいない部屋に声が吸い込まれていった。ベッドの真上には室内干しの物干し竿がかかっている。ベッドさえどけてしまって、これに紐をかけたら、たぶん首吊れるだろうと考えた。たしかクローゼットにはスズランテープがある。耐荷重がちょっと不安かもしれない。けっこう具体的に手順を思い描いてみたけれど、ベッドを動かす気力がなかったからやめた。

仕事中、携帯を見る頻度は少なくない。誰にも見られていない環境で真面目に仕事し続けるには、私は怠惰すぎる。そうやって気を散らしている時間があるんだから、夜中まで仕事をする羽目になるのは自業自得だと思っている。だけど、ほんとうにそうだろうか。標準的な労働時間としての8時間、フルで集中力を保てる人間なんかいない。私の怠惰を差し引いても、連日22時とか23時まで会議があるのは現実で、これは私の自業自得の範疇を超えていると考えるほうが妥当だろうとは思う。となると、私がじゅうぶんに頑張っていないという私の認識はたぶん間違っている。そうなると、今度は認知の歪んだ状態の私がつらいと思っていることがあやうく感じられてくる。何を信じればいいのかわからない。感覚がぜんぶ不確かだ。

前の晩、友人からもらった「死ぬなとは言えないけれど、海にさらってしまえたらいいのに」という言葉を、幾度も読み返す。もうとっくに諳んじることができるくらいなぞったのに、そのたび新鮮に涙が出てくる。言葉を軽んじることのない人だとよく知っているから、私のために考えぬいて選んでくれたであろう言葉たちが胸のど真ん中に飛び込んできた。海、行きたい。この人と行きたい。その衝動に突き動かされて顔を上げようと思った。たったひとりの言葉に縋って生きようと思うなんて、重すぎてその人を引きずりおろしてしまいやしないかと怖く思うけれど、その人が今の私と同じところにいたら、やっぱり私も同じように海にさらいたいと思うんだろう。

その人は、私のことを冬の夜空の一等星のようだと言った。そんな美しい形容がふさわしい人間では全然ないけれど、そんなふうに生きたいとは思う。太陽のような眩しさも、月のような安定もいらないから、無数の星のひとつでありたい。ときおり自分がブラックホールになったみたいな気分になることがあるけれど、まだ終わらせたくない。わかっている。私は全然死にたくない。死にたいと思わされてるだけ。死にたくない、死にたくない、死にたくないってまじないのように唱える。生きたいから、生きのびなくちゃいけない。