2月1日(月)凪

土曜、知人に紹介してもらった病院に行った。拍子抜けするくらいあっさり診断がおりた。適応障害、ということらしい。1ヶ月の休養を勧められて、薬を処方してもらって、診断書も受け取った。

日曜の夜、3時間かけて上司に引き継ぎはしたものの、それで「はい、じゃあ、あとはよろしくおねがいします」というわけにもいかないので、けっきょく今日も朝から夕方まで会議には出た。優秀な上司の手にかかってぐんぐんと状況が整理されていくのを目の当たりにして、午前中は自分の無力さと不甲斐なさにひとしきり落ち込んだ。この人と自分を並べて考えるには百年早いとわかってはいても、自分ではできなかったことをまざまざと見せつけられるのは苦しい。とはいえ、感情の内訳としては惨めさとか自責の念よりも悔しさがいちばん強かったから、まだ自分は頑張れるのかなと安心したりもした。とても休養しているとは言い難い状態だけれど、いきなりすべてを手放してしまうとそれはそれで気に病みそうだし、これくらいで良かったのかもしれない。私がすっぱりいなくなっても何事もなく回っていたら、たぶんそのほうが落ち込んだだろうから。代替可能であることも、代替不可能であることもしんどくて、難しい。

プロジェクトメンバーからも、それ以外の同僚からも「大丈夫?」と連絡が来た。この業界に体調不良はつきもので、自分も経験したという先輩たちは、口を揃えてゆっくり休んでねと言ってくれて、素直に嬉しいと思った。

午前の軽い落ち込みを越えたあとは、終始穏やかに過ごせた一日だった。上司に仕事を任せることのできた安心感からなのか、薬がうまく効いているのかがわからないけれど、ここ数年を思い返しても指折りの調子の良さで、ちょっと気持ち悪いくらいだ。まず頭の中がうるさくない。これがかなり新鮮な感覚で、ちょっとそわそわしてしまう。数日前の、思考が片っ端から真っ黒に塗りつぶされていく恐怖なんか嘘みたいだ。こうして文章を書いていても、いつもよりなめらかに言葉が出てくるように思える。何かをやろうと思いたったときに、(たとえばトイレに行くとか、紅茶を淹れるとか、洗濯機をまわすとか)すぐに体がそれについてこれる感覚にも馴染みがない。楽だ。楽すぎて怖い。

以前体調が思わしくないことを上司に報告したら、薬に頼ったっていいと思うよと言われた。苦しい方をあえて選ぶ必要がないことはたしかだ。楽に過ごせるのなら、そのほうが良いに決まっている。でも、ふたたび仕事ができるようになるために、ひいては生産性のため、優秀な金儲けの道具であり続けるために楽になることを「選ばされる」ことに、どこか理不尽さを覚えないでもない。

適応障害というのは、うつ病と違って、ストレスの原因を取り除けば回復する類のものをいうらしい。すなわち、負担を軽くしてもらった今、調子がいいのは、ある意味当然なのである。でも、また負荷の高い状態に戻った時に自分がどうなるのかが怖くてたまらない。波はあれど、この六、七年はずっと死にたさと同居してきたから、そうじゃない自分なんかイメージできないのだ。薬の効果とか、仕事が軽くなったから良くなるんじゃ、けっきょくのところ解決にはなっていない。死にたくない自分なんか知らないから、この先どうやって生きていけばいいのか、すこし足元が不安だ。それでも、今回思い切って病院に行ってみて良かったと思う。すくなくとも、この先またどうしようもなくなったときに、頼れる先があると思えるのはすごく心強い。

一時的にだとしても、日付が変わるまで仕事のことを考えるところからは抜け出せたので、当面はここ最近ぼろぼろだった生活を立て直すことに意識を向けたいなと思っている。毎日入浴すること、毎日歯を磨くこと、きちんと睡眠と食事をとること、週に3回は陽の高いうちに外に出ること。生活の基礎から。大学院をやめたばかりのころも、そういえばここからのスタートだったなと思い出す。今日はちゃんとシャワーも浴びられたし、歯も磨けたし、夕食にカレーとスープ(どっちもインスタントだけど)も食べたし、観たアニメが面白かったし、幸先は悪くない。