2月28日(日)迷子の欲望

昨日、友人たちとオンライン飲み会を終えたのは日付が変わる前で、そのまま寝てしまえばよかったものを、『クイーンズ・ギャンビット』を見てしまったのがいけなかった。目が覚めたのは正午をとうに過ぎた頃、布団を抜け出したのは15時近かった。

『クイーンズ・ギャンビット』は、いつもの悪い癖で、インターネットで話題になっているときはあまり関心を向けていなかったのだけど、めぼしい作品をあらかた見終えてしまって少し手持ち無沙汰になっていたところで、なんとなく再生してみたらすっかりとりこになってしまった。

台詞がすくなくて、映像がそのぶん雄弁な作品だった。音楽の使い方、光の使い方、色温度、衣装、構図、どれをとっても私の好みのど真ん中を撃ち抜いてくるものだった。三島由紀夫とか沢木耕太郎の文章を読む時、内容よりも前にまず整然とした言葉の並びの美しさに言葉を奪われるのだが、それと同じ感覚だった。私は、こういう文章を書きたいのだ!と観ながら何度も思った。説明的でない、すくない言葉で濃密に情景を描きだすような技術がほしい。そういう文章が書きたいのだ。と同時に、どうしたって言葉は映像には勝てないのだろうか、と思う。

二次創作の世界にまた身を置くようになって、同じことを考える時間が増えた。凄絶な作品を生み出す創作者はたくさんいる。技術的な面だけではなく、キャラクターを掬いとって物語に還元することが巧い人が多い。そしてそういう作品の多くは、漫画やイラストという形をとる。数値化することが容易いインターネットの世界では、映像や画像が言葉にくらべて人の心に響きやすいことは紛れのない事実だ。画像は、余白がある。言葉にしない部分がある。そこには、見る人の解釈が入る余地がある。それに対して言葉は、もっと書き手がイニシアチブを持つツールだ。世界を規定するのは書き手。そういう強さを、敬遠する人はいるだろうと思う。私は自分のために書いているというスタンスを崩したくはないけれど、それは誰にも届かなくていいという意味ではない(でなければ文章を公開したりなどしない)。だから、自分の創り出すものが、言葉であるからという理由だけで、誰かに届かないかもしれないことが悲しい。自分に絵が描けたら良かった、と思う時、無性にやりきれない。

書きたい題材がうまく浮かんでこなくて、かといって観たい作品があるわけでもなく、本を読みたい気分でもなく、ゲームをこなしながらひたすらパソコンに向き合うだけの半日だ。自分が何をしたいのかわからないとき、不安になる。人間は欲望をドライブに動く生き物だ。欲がない、というのは怖い。わからないから、iTunesのライブラリを全曲シャッフルしてただ聴いている。

買うばかりでずっと読めていなかったビッグイシューを読めたのは良かった。あまり雑誌は読まないけれど、良い雑誌だ、と読むたびに思う。ひとつひとつの記事が真摯だ。『希望へ』と題した第400号には泣いてしまった。希望なんてずいぶん考えることをしていない。希望よ。光よ。

上司から、夜に打ち合わせをさせてもらえないかという連絡が入っていたのは見なかったことにした。金曜の夜にミーティングをすっぽかされた腹いせもあるけれど、そもそも今日は日曜日だ。休日勤務も深夜残業も、仕事ならば仕方がないと臨んできたのが間違いだったんだ、と思う。そういう姿勢に、上司がつけ込んでいなかったとは言わせない。ささやかな反抗をもっとしてやる。そういう業界だから、というなら、滅びればいいまでだ。搾取のうえに成り立つこの世界に思い入れなんかあるわけないんだから。