ハイ・アドベンチャー

幸せな日曜日について話そう。前の日の嵐が嘘のような、抜けるような青空だった。起きだしたのは十時すぎ。干しっぱなしの洗濯物を畳み、皿を洗い、水回りを磨いて、掃除機をかけた。家を出たのは正午すこし前だったと思う。時間には余裕があると思っていたのに、服がなかなか決まらなかったせいでけっきょくばたばたした。髪の内側にピンクを入れたので、色の合う服を選ぶのに困るようになったのだ。クローゼットとにらめっこしながら、けっきょく濃い緑のタートルネックに、白のワイドパンツという格好にした。緑とピンクの組み合わせが案外悪くないというのは発見だった。先月大奮発して購入した日長石のリングと、母のお下がりのリングを着けて、せっかくの髪の明るい部分が目立つようにハーフアップにした。アイシャドウも髪に合わせてスモーキーグレーの上にピンクを重ねた。ひさしぶりにちゃんとめかしこんだ自分の姿がなかなか良くて、嬉しくて鏡の前でちょっとにやにやしてしまった。

すこし気合の入った服装をしたのは、行き先が劇場だったからだ。こどもの頃、年に一度くらいこういう公演に連れて行ってもらうときがあって、そういうときにはきまってよそゆきの服を着せられていた。だから、それから二十年以上が経って、好きな時に好きなものが観られるようになっても、劇場という場所は私にとって特別なところなのだ。ふだんよりすこし良い服を着て、背筋を伸ばした自分が行く場所。公演というのは、非日常であり特別であり、そうしてもたらされる特別に見合う自分でいたいような気がするんだと思う。家に帰るまでが遠足というフレーズがあるけれど、公演を観るという行為も、上演時間だけじゃなくて、起きた瞬間からはじまっているものだよなあと思う。

行けなくなってしまった友人にチケットを譲ってもらって、汐留の電通四季劇場で、開幕六年目?のロングラン公演『アラジン』を観た。このあたりは仕事で一時期頻繁に通っていたので、休日に訪れるのはなんだか夜中に学校に忍び込んでいるみたいなわくわくがあった(学校に忍び込んだことはないけれど)。劇団四季の公演は、去年好きだった女の子と一緒に観た『ライオンキング』以来二度目だ。

もう最高に楽しかった。純度の高いエンターテイメントを浴びた時の人間が味わう幸福がこんなにも強烈だったこと、忘れていた。私がこういうエンターテイメントに心惹かれるのは、この数時間を作り上げるために裏で心血を注ぐひとびとの熱量を、作品を介して受け取れるからである。凄まじい熱量に殴られることは麻薬的な快感をともなう。演劇にかかわったのは、大学時代の最後の方の、ほんのすこしの期間だけれど、あの期間があってほんとうに良かったと思う。物語だけではなく、舞台装置や大道具、小道具、衣装、照明、音響、演出、そのひとつひとつの技術について私は無知だけれど、すくなくともあらゆるプロフェッショナルが集って作り上げる作品という視点で公演をとらえることを学べて良かった。実に凄まじかった。豪華絢爛な衣装の数々にも、壮大な優美なセットにも、照明も、何もかもに圧倒されっぱなしだった。ずっとわくわくしていた。小道具は1000点以上、衣装は300着といずれも四季の演目史上最多であることをあとから知って、納得した。学生演劇はどうしたって予算に大きな制約を受ける。あの頃の私たちが泣く泣く諦めたことを、飽かずに徹底的に追い求めたらこうなるのか、というじりじりとした憧憬もあいまって、ずっと胸におおきな感情の塊が詰まっていた。

ふたつ、この公演について絶対に書いておきたいことがある。

とっても楽しかったし、大好きになったからこそ、手放しで何もかも良かったと言えるわけではない、ということを強調しておきたい。王位を狙っていて、そのために願いを叶える魔法のランプを手に入れようとしているジャファーが、ランプのある洞窟に入れるのがアラジンだと知って彼を探しだした時に「おまえのことをずっと探していたんだ」みたいなことを言うシーンで、ジャファーの家来のイアーゴが「変な意味じゃないよ!」と茶々を入れる台詞があった。話の流れからしたら明らかに不要な、笑いをとるためだけに挿入された台詞だ。「変な意味」というのが「男が男を好きになる」ことを意味している以上、それを笑いどころとして扱った脚本は残念に思った。「男が男を恋愛の文脈で見る」ことは「変な」ことなんかではないし、そういうの、ぜんぜん面白くない。観客がそれに笑ってるのも最悪だったけれど、何よりもしんどかったのは、小さなこどもの笑い声がその中に混じっていたことだ。姿は見ていないけれど、声の印象だけでいうと小学校低学年か、もしかしたら未就学児くらいかもしれない。そのくらいの年齢でもあれを笑いどころだと思える価値観が醸成されていることに、ホモフォビアはこうやって再生産されていくんだなというのを実感させられて落ち込んでしまった。一緒にいた友人はすでにこの公演を六回ほど見ている人で、開演前に「たぶん二、三回はアウトなシーンがあると思う」と予告されていたけれど、終演後すぐに、どちらからともなく「あのシーンでこどもが笑ってたのきつかったよね」という話になった(友人が友人たる理由である)。これ以外にもイアーゴの台詞にはきつめのミソジニーが匂っていて、何度かすっと真顔になってしまった。もったいないなあ、と思う。真摯に創られた作品だというのはよく伝わってきたから、そういうところでケチがついてしまうのは悲しい。誰かを傷つけたり踏みつけたり馬鹿にしたりせずに人を笑わせる方法はかならずあるはずだと思いたいし、私はそういうものが見たい。エンターテイメントってそういうものであってほしい。

もうひとつは、新しい推しを見つけてしまった話。アラジンの友人のズッコケ三人組のひとり、カシームを演じる田中宣宗さんである。かなり序盤から、舞台上に彼がいるときは、視線が自然とそちらに引き寄せられていた。何がそんなに自分に刺さったのかよくわからずにいるのだけど、彼がいなければ、私は終演後すぐに四季の会に入って来月のチケットをとったりはしていなかったと思う。なんだかよくわからない熱に駆られたまま、月曜は仕事の合間にファンレターを書いて、そのまま郵便局に切手を買いに行って投函したりしていた。特定の誰かを推すという行為を生活の中心において五年近くが経って、いろんな人を推してきたけれど、ファンレターを書いたことは一度もない。ジノには何度か書こうと思ったことがあるけれど、自分が流暢に使えない言語で書いて伝えたいことを取りこぼすのも、相手に不自由な言語で書くことも、自分に気づいてほしいというファンの肥大化した自意識に飲まれて手紙を送る愚かさも嫌だったから、けっきょく実行に移したことがなかった。ずっと自分の中で幸福を味わって浸って満足していた。だから、自分でも驚いている。こんなふうに、あなたの舞台を見て楽しくて嬉しくで幸福だったよ、というのを伝えたくなる気持ちって、あんまりなかった気がする。何が自分をそうさせたのだろう、と思うから、早くまた観に行きたい。次は4月3日だ。その日のカシームのキャストが田中さんかどうかはわからないけれど、そうだったらいいなあと思う(でも、あの舞台をもう一度観られるだけでもとても楽しみ)。こうやって勢いよく坂を転がり落ちてのめり込んでいく瞬間がいちばん楽しいかもしれない。友人には「目の前で沼落ちしていく人間、おもしろかった」と愉快がられた。

この三、四年はアイドルのコンサートばかりだったけれど、今年に入って幾つか舞台を観て、久しぶりにこちらの楽しさも思い出したので、今年はもっといろいろ観たい。チケットを譲ってくれた友人も、この日一緒に観に行った友人も、学生時代一緒に演劇をやっていた間柄だ。今年の年明けには三人で宝塚を観に行った。ひとりは東宝や四季、もうひとりが宝塚と、ジャンルの異なるオタクでもあるので、いろいろ連れて行ってくれるように頼んでいる。終演後にふたりと飲む酒が楽しいというのもある。来月にもまた三人で観劇して酒を飲む会をやろうと話している。